バッハの作品は完成度のムラが少ないとよく言われています。天才と言われるモーツァルトは『ジュピター』(神曲?)とか『フィガロの結婚』のような素晴らしい作品を残した一方で、さすがに天才といっても子ども時代の作品は「よくできてはいるけれど、なんだか物足りない」のような出来栄えになっていることもあります。これと比べてみると、バッハの作品はどれも似ているといえばそうなのですが(というか、ある楽器のための作品を書いたら、別の楽器に移し替えてまた1曲仕上げていることもある)、一方でどれもしっかりとした作りになっているのが特徴的です。
では、なぜこのような評価の差が生まれるのでしょうか? その背景には、両者の作曲スタイルや時代背景、作品の目的など、さまざまな要素が関係しているのでは、というのが私の見立てです。
まず注目すべきは、バッハとモーツァルトが作曲を行っていた環境や目的には自ずと違いがある、ということです。バッハは生涯を通じて教会や宮廷に仕える職業音楽家でした。彼の多くの作品、特に宗教曲やカンタータ、器楽曲は、毎週の礼拝や行事など、明確な目的がまずあって、そのために作曲されています。つまり、作品は常に実用性が求められ、その中で高い音楽的完成度を維持する必要がありました。ある意味、自己表現のためのツールではなくて、「労働」としての作曲という側面が強く、結果として常に一定以上のクオリティを保たせる要因となっていたことは否めないでしょう。
一方、モーツァルトは比較的自由な立場で活動しており、演奏会用の作品や貴族のための依頼作品、自分自身の芸術的探求としての作品など、目的も対象もけっこうバラツキがあります。おかげで『フルートとハープのための協奏曲』のような珍しい組み合わせの名曲が生まれているのはモーツァルトの魅力でもありますが、時には「なんじゃこりゃ」な作品も含まれており、結果として「ムラ」に見えることもあるでしょう。
一方、モーツァルトは比較的自由な立場で活動しており、演奏会用の作品や貴族のための依頼作品、自分自身の芸術的探求としての作品など、目的も対象もけっこうバラツキがあります。おかげで『フルートとハープのための協奏曲』のような珍しい組み合わせの名曲が生まれているのはモーツァルトの魅力でもありますが、時には「なんじゃこりゃ」な作品も含まれており、結果として「ムラ」に見えることもあるでしょう。
また、バッハの音楽は、厳密で緻密な対位法を基礎とした構造的な美しさを持っています。たとえば『平均律クラヴィーア曲集』にしろ『フーガの技法』に代表されるように、数学的とも言える構成力と論理性で、どの作品にも一貫した精緻さがあります。このようなスタイルは、どの曲も「しっかり作り込まれている」という印象を与えます。対照的にモーツァルトは、バッハのような構築性というよりもむしろメロディな美しさや、巧みな和声をつかって感情を表現することがうまい作曲家です。
わずか数十年ですが、二人の生まれた時代も見逃せないでしょう。バッハが活躍したバロック時代は、形式や様式が非常に明確で、作曲においても厳格なルールが重視されていました。そのため、作品における完成度や統一感が高くなりやすい環境だったといえます。(というか、バロック音楽自体どの作品も似たような傾向があります。)
それに対して、モーツァルトは古典派の確立期に生きた作曲家であり、新しい形式や表現を模索し続けていました。その実験的な姿勢は、音楽の発展に大きな貢献を果たしましたが、他方で意欲作はある意味「冒険しすぎじゃないか」とも思えなくもないでしょう。まあ、モーツァルトは自由な創作活動の中で多様な音楽世界を築いた天才ですから、その幅の広さこそが彼の魅力でもあるわけですが。
それに対して、モーツァルトは古典派の確立期に生きた作曲家であり、新しい形式や表現を模索し続けていました。その実験的な姿勢は、音楽の発展に大きな貢献を果たしましたが、他方で意欲作はある意味「冒険しすぎじゃないか」とも思えなくもないでしょう。まあ、モーツァルトは自由な創作活動の中で多様な音楽世界を築いた天才ですから、その幅の広さこそが彼の魅力でもあるわけですが。
このように考えると、置かれた環境の違いでそうなった、という要素が強そうです。そういえば「人間は環境に勝てない」っていう言葉を聞いたことがありますが、これもその一種なのかもしれません。
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