世の中には「交響曲」というジャンルがあります。ベートーヴェンの『運命』とかモーツァルトの『ジュピター』みたいにはっきりとした構成を備えたものがわかりやすいですね。こういうのはたいてい人気曲になります。『新世界より』とか『悲愴』とか『イタリア』のように副題がついているとヒット間違いなし。事実、こういう曲はよく演奏会のプログラムに採用されます。

でも『幻想交響曲』みたいに破天荒な構成だったり『未完成』みたいに文字通り未完成だったり、『大地の歌』のように「お前は本当に交響曲か?」と問い質したくなるようなものもあります。

結局、一体どこからどこまでが交響曲なのでしょう?

一般的に・・・、ごく一般的にいうと、交響曲とはオーケストラのために書かれた多楽章の大規模な器楽作品を指します。特に18世紀から19世紀にかけては、ソナタ形式やロンド形式を用いた明快な構造が重視されました。たとえば、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンの交響曲は、4楽章構成を基本とし、主題の提示・展開・再現といった論理的な流れを持つ点が特徴です。とてもロジカルでわかりやすいですね。だから古典派と言われているのも理解できます。

しかし時代が進むにつれ、作曲家たちはこの伝統的な枠組みにとらわれない、自由な交響曲を生み出すようになります。先程の『幻想交響曲』がまさにそう。こんなもんがベートーヴェンの『第九』の数年後に発表されたというのは革命的すぎます。

20世紀になると、ヴォーン・ウィリアムズの『南極交響曲』という作品も現れます。この作品は元々映画音楽として作曲されたもので、女声合唱やオルガンなどを取り入れ、壮大な自然の情景を描いています。形式よりも音響的な印象や物語性が重視されており、ある意味では交響詩に近いとも言えるかもしれません。一方でリヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』とか『家庭交響曲』とかは、交響曲と称するわりには交響詩といった風情です。ネーミングをミスったのでしょうか。

曲がりなりにもこうした作品も交響曲と呼ばれるのは、交響曲という言葉が単に形式的な枠組みにとどまらず、「音による世界観の表現」や「思想の音楽的展開」といった意味を背負わされるようになったからではないでしょうか? オーケストラを用い、複数楽章で構成されており、テーマやモチーフの展開を通じて大きな流れや感情を描く。こうした要素がそろっていれば、作曲者が「これは交響曲です」と言い張れば「交響曲」になってしまうようなのです。

というわけでマーラーは交響曲に声楽や哲学的な問いを持ち込み、ショスタコーヴィチは政治的な皮肉や抵抗を盛り込みました。メシアンやアイヴズのように、宗教的・宇宙的なビジョンを音楽で描こうとした作曲家もいます。こうして交響曲は、形式ではなく内容や発想の広がりによって定義されるようになっていきました。つまり、交響曲とは、古典派のころの「構造の音楽」である一方、段々と「思想や感情を音で表現したもの」でもあるのです。明快な構成を持つ古典派の交響曲も、曖昧で詩的な現代の交響曲も、そのどちらもが「交響曲」ということになってしまいました。

ここまで定義が曖昧なのは「交響曲」だけではないでしょうか。なぜって、協奏曲とかソナタとかは交響曲ほど定義があやふやではなく、「ピアノ協奏曲」とか「ヴァイオリン・ソナタ」は聴けば明らかですもの。にしても言い張れば交響曲になってしまうなんて、ずいぶん便利なジャンルですね。