パガニーニの『ヴァイオリン協奏曲第1番』。国際コンクールでも課題曲に採用されることが多く、演奏者の技術レベルがいかほどのものかを推し量る曲として持って来いでしょう。コンサート・プログラムにもよく掲載されています。
・・・というのが一般的な言い方ですが、これって本当に名曲なんでしょうか・・・?
正直、技巧的な華やかさにもかかわらず、私は毎回毎回「退屈」に感じます。
そんなことは書かなくてもいいのですが、いちいち理由を掘り下げてみたいと思います。
まず、パガニーニの協奏曲は「ワイってこんなに上手いんやで」な側面が強調されすぎていることが、逆に退屈です。パガニーニは、超高速のスケールやアルペジオ、重音奏法、ハーモニクスといった高度なテクニックを駆使し、当時の聴衆を驚かせました。しかし、これらの技巧があまりにも前面に出すぎると、「それで何を伝えたいのか」よりも単なる「技術の誇示」に偏ってしまいます。
お気に入りのヴァイオリニストの演奏技術そのものに注目している間はすごいと思うかもしれませんが、技術の見せ場が続くと、だんだんその環境に馴れてきてしまい、たとえば、ベートーヴェンやブラームスの協奏曲のように、技巧とともに旋律や和声の美しさ、音楽の構造が際立つ作品と比べると、パガニーニの協奏曲は「演奏者が弾きこなせるかどうか」という外面的な要素に焦点が当たりすぎているように感じられることがあります。まあ、これはもともとそういう曲だったので仕方ないのでしょうけれども。
さらに、メロディやハーモニーのワンパターンぶりも「退屈さ」の原因となります。パガニーニのメロディーは親しみやすく耳に残りやすい反面、工夫に乏しく、一本調子であることは否定できません。
さらに、メロディやハーモニーのワンパターンぶりも「退屈さ」の原因となります。パガニーニのメロディーは親しみやすく耳に残りやすい反面、工夫に乏しく、一本調子であることは否定できません。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のように、最初に提示された主題が展開し、対位法的に処理され、音楽が発展していくようなひねった構成はパガニーニの作品にはあまり見られません。彼の場合、華やかな技巧の裏にある音楽の構造が単純で、同じようなパッセージが繰り返されます。そうなると聴いていて途中で中だるみを感じてしまいます。特に第1楽章は20分以上の長さがあり、展開部に入ってからは技巧的なパッセージが連続するため、音楽的な盛り上がりや展開というよりも「技術の見せつけ」に陥ってしまいます。
さらに言うなら、協奏曲の構成自体が「ヴァイオリンを演奏するパガニーニ自身を引き立てるための器」にとどまっていることもまた欠点です。
通常、協奏曲ではソロとオーケストラが対話しながら音楽が進行し、緊張感やダイナミズムが生まれます。しかし、パガニーニの協奏曲ではオーケストラが単なる伴奏に徹して「ズンチャッチャ」ばかりいやっているため、音楽的なドラマや対話の要素が薄くなっています。オーケストラが「単なる背景」になることで、音楽全体が単調になり、ヴァイオリンソロだけが突出して聞こえる印象が強まります。
要するに「俺がソロだから、お前らは後ろから適当について来い、わかったな。とにかく黙ってついて来ればいいんだ」。これに尽きます。ベートーヴェンの協奏曲のように、オーケストラとソロが掛け合いながら音楽が進行していくような緊張感や展開が不足しているのです。その結果、「ソロが技巧的なパッセージを弾き続けているだけ」という風情になり、だんだんどうでもよくなってきます。
もしかしたら、世の中のヴァイオリニストの大半は、パガニーニの演奏スタイルを完全に再現できていないのかもしれません。パガニーニは即興的な装飾や演奏中の表現の自由度を重視していたと言われています。現代の演奏家がパガニーニの作品を楽譜通りにそのまま演奏すると、音楽が整いすぎてしまい、パガニーニが実際に持っていたであろう即興性や劇場型のパフォーマンスが再現されません。そのため、技巧的には完璧であっても、「いまこの瞬間に生み出される音楽」といった空気感が欠けてしまい、結果として「退屈な演奏」に聞こえてしまうのかもしれないですね。
このように、パガニーニの『ヴァイオリン協奏曲第1番』は、超絶技巧の華やかさがある反面、そればかりが前面に押し出された結果、退屈に感じられる原因となっています。ベートーヴェンやブラームスが好きな人、言い換えれば深く考えながら音楽的な感動を味わいたい人にとっては、技巧の凄さがかえって「退屈さ」に繋がってしまうのかもしれませんね。
もしかしたら、世の中のヴァイオリニストの大半は、パガニーニの演奏スタイルを完全に再現できていないのかもしれません。パガニーニは即興的な装飾や演奏中の表現の自由度を重視していたと言われています。現代の演奏家がパガニーニの作品を楽譜通りにそのまま演奏すると、音楽が整いすぎてしまい、パガニーニが実際に持っていたであろう即興性や劇場型のパフォーマンスが再現されません。そのため、技巧的には完璧であっても、「いまこの瞬間に生み出される音楽」といった空気感が欠けてしまい、結果として「退屈な演奏」に聞こえてしまうのかもしれないですね。
このように、パガニーニの『ヴァイオリン協奏曲第1番』は、超絶技巧の華やかさがある反面、そればかりが前面に押し出された結果、退屈に感じられる原因となっています。ベートーヴェンやブラームスが好きな人、言い換えれば深く考えながら音楽的な感動を味わいたい人にとっては、技巧の凄さがかえって「退屈さ」に繋がってしまうのかもしれませんね。
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