ユゴーの代表作である『レ・ミゼラブル』は新潮文庫では5巻にも及ぶ超大作です。そもそも主人公であるジャン・バルジャンが冒頭100ページくらいまったく登場せず、別人である神父さんがいかにいい人であるかがこれでもかと語られます。しかもその人はそのあと一切登場しません。だったらそんなにくどくどと語らなくて良かったじゃん。

このほか、作者が社会のあるべき姿を論じたり(そこで論じて何かが変わるわけでもないのだが)、下水道の仕組みについてペラペラと語っていたりと、「ようこんなに読者を置いてけぼりにして脱線できるわい」と逆に感心してしまう場面がたくさんあります。もしかすると話の本筋よりもそっちの文字数が多いじゃないかとふと疑いたくもなるほどに脱線だらけです。

さらに、登場人物がこりゃフィリバスターかよと思うような長広舌を振るっており、「普通の人だったら一つのテーマで何ページも語るわけないよな」と感じてしまい、そいつの話を聞く意欲が激減します。激落ちくんとはこのことです。
(フィリバスターとは議事妨害のこと。特に、米国連邦議会の上院において、演説を長時間続けて議事進行をさまたげる行為のことです。上院では発言の時間制限が設けられていないため、気に入らない法案が提出されると議員はただ長いだけの演説をなるべく長時間続けて邪魔してやろうとするわけです。)

私はこういうのに出くわすたびに「また始まった。やれやれ」と思い、何の思い入れもなくページをペラペラとめくって次のトピックに躊躇せず移っていました。

しかしながら結果的にそちらのほうが正解でした。まともにすべての文章を読んでいると時間がかかるうえに話の本筋とは無関係な情報に引っ張られることでストーリーから脱落してしまいます。
むしろ、あくまでもストーリーを追いかけることに徹したがゆえに、挫折することなく少ない時間で最後までたどり着くことができました。

結局、『レ・ミゼラブル』を読むにあたって、「躊躇せず飛ばし読み」は大事な思考法だという結論に至りました。この小説は19世紀の文学を代表する作品である一方で、必ずしもすべての読者が楽しめるものとは限らないのです。

脱線だらけで読みづらいと否定するのは簡単ですが、ユゴー自身が意図してそうした可能性ももちろんあります。それに、歴史的文書としての価値も否定できません。当時の人々はパリという都市をどう捉えていたのかとか、19世紀の民衆の生活水準はどうだったのかなど。

しかしながら、最大の正解は「つまらなそうだと思ったら読ばない」という選択肢を常に行使しつづけることでしょう。読書に当てることができる時間は誰しも有限ですから、時間という貴重なリソースを最適配分するにはこれが結局ベストでしょう。
いつか再読したくなったら、その時に読み残した部分にチャレンジしてみる。これは、長大な文学作品を自己都合で楽しむためのベストな方法だと痛感しました。

問題は・・・。「いつ再読したくなるの?」です・・・。私は初回から二度目まで12年の間隔がありました。長い。そして三度目の目処は一切立っていません・・・。