日本は1945(昭和20)年8月14日にポツダム宣言受諾を決定し、翌日15日にポツダム宣言を受け入れたことを連合国に通告しました。この8月15日という日付が終戦の日とされています。これは日本人が共通認識として持っているもののはず。

他方で、世界で共通する終戦の日は日本が降伏文書に調印した9月2日ということになっています。実際には国際法上は、降伏とは国と国の契約であり、降伏文書への署名をもってはじめて効力を発揮することとされています。つまり9月2日に米戦艦ミズーリの艦上で連合軍との降伏文書の署名が終わるまで、日本の戦争は終わってはいなかったのです。この8月15日と9月2日という認識のズレは北方領土問題などにつながってゆくことになります。

8月16日に日本の大本営は各地の部隊に戦闘中止を命令しました。しかし連絡・通信機器の不備によって、すべての地域で戦闘が終了したわけではありませんでした。ソ連軍はなんと8月18日に千島列島を南下し、8月28日には択捉島、9月1日国後島、9月4日から5日にかけて色丹島、歯舞群島を占領していきました。つまり降伏文書に署名し、戦争が終結したあともソ連は進軍を継続したということです。しかもソ連は9月20日に占領した日本の領土を一方的にソ連の領土に編入しました。とんでもないやつです。

このように、戦後の混乱の中でソ連が進軍を続け、日本の領土を一方的に編入したことが、現在の北方領土問題の発端となっています。しかし、この問題は単純な領土問題ではなく、歴史的・外交的に非常に複雑な要素を含んでいます。

まず、ソ連は「戦争による正当な戦果」として北方領土の支配を主張しています。ソ連はヤルタ会談において、アメリカ・イギリスとの間で「対日参戦の見返りとして千島列島の譲渡を受ける」との密約を交わしていました。しかし、日本はこの密約に関与しておらず、さらにサンフランシスコ平和条約においては日本は千島列島の放棄を宣言しましたが、ソ連はこの条約に署名していません。そのため、「千島列島の範囲」や「北方四島の帰属」に関する解釈の違いが生まれています。

また、日本政府は北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)について「歴史的にも一貫して日本の領土であり、千島列島には含まれない」との立場を取っています。一方、ロシア側は「北方四島も含め、千島列島全体が第二次世界大戦の結果としてソ連に帰属した」と主張し続けています。

さらに、冷戦時代を通じて日ソ関係は緊張し、領土交渉も停滞しました。1956年の日ソ共同宣言では、ソ連側が「平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本に引き渡す」との方針を示しましたが、これにより日本側が残る二島についての交渉を継続する姿勢を示したため、最終的な解決には至りませんでした。その後、ソ連崩壊後のロシアもこの立場を維持し、現在に至るまで交渉は難航しています。

また、北方領土には現在1万7000人以上のロシア人が住んでおり、彼らの生活基盤が形成されていることも問題の解決を複雑にしています。日本政府は経済協力やビザなし交流を通じて関係改善を模索してきましたが、ロシア側は軍事基地の建設や領土防衛の強化を進め、強硬姿勢を崩していません。

近年の日露関係も、この問題の進展に大きく影響を与えています。2010年代には交渉が活発化しましたが、2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降、日本とロシアの関係は急速に悪化し、北方領土問題の交渉は事実上停止しています。

以上は『ロシアから見た北方領土』という書籍の記載内容をもとに自分が調べたことのメモです。
ところで、2024年時点で、日本の人口は毎年80万人以上も減少しており、地方都市では過疎化が深刻な問題となっています。もし北方領土が日本に返還されたとして、どれくらいの人がそこに住んでみたいと思うのでしょうか。なぜかこれについては誰も論じていないようなのですが・・・。