「ブラームスはお好きですか?」という言葉がサガンの『ブラームスはお好き』という小説に書かれています。私ならイエスです。でもシューマンとなると、イエスとは言えません。正直言って苦手意識を抱いています。後でふれる『クライスレリアーナ』も、もう20年は聴いていません。聴いていて「なんじゃこりゃ」という気分になるからです。

思うに、シューマンの作品に苦手意識を抱く理由は、演奏者に求められる技術的および精神的な要素が非常に特異だからではないでしょうか。彼の音楽は独特な世界観を持ち、それを表現するには単にうまい・下手だけではなく、作曲者の意図や感情の奥深さを深く理解することが求められるようです。ようするにめんどくさい奴なのです。そのため、シューマンの作品を演奏する際には、他の作曲家とは異なる難しさが生じてしまいます。ここに共感できるかどうかが、分かれ道なのでしょう。

唯一(?)『ピアノ協奏曲』が大人気なのは、そういうめんどくささが抑えられ、ロマン派のピアノ協奏曲でございます、といった風情できれいにまとまっているからだと思います。この劇的な表現、『ウルトラセブン』の最終回に使われていた(しかも長々と)のもわかりますね。

また、シューマンの作品は形式的にかなり自由に作られています。この自由さが彼の音楽に特有の魅力を与える一方で、演奏者にとっては「どうやったらいいんだ」と悩ませる欠点でもあります。

次に、シューマンの音楽はしばしば「書いている時精神的に不安定だったんだろうな」と思わせる場面がたくさんあります。特に、『交響曲第2番』とか『交響曲第4番』ですね。これらの感情を演奏者が適切に表現することは容易ではないですし、単に音符を正確に音にしていくだけ不十分でしょう。

また、たとえばピアニストにとっても「こりゃどうやって弾くんだ」と思うような箇所も見られるようですね。両手の動きが複雑に絡み合い、特定の音色やタッチを求められるようです(ワイ、ピアニストじゃなくてよかった)。『謝肉祭』や『クライスレリアーナ』がそうですが、細かなパッセージやテンポの急激な変化が多く、正確かつ表現力豊かに演奏するためには高度な技術が必要です。ただ、弾いたら弾いたでショパンの『練習曲』みたいにお客さんが喝采してくれるかというと、そうでもないのでいまいち報われない感がありますね・・・。

このように、シューマンの作品に対する苦手意識の背景には、演奏技術だけでは解決できない心理的・解釈的な問題が横たわっています。曲がりなりにも大音楽家である以上、深い芸術性と独自性を持つがゆえに、その表現には演奏者の成熟した音楽観が不可欠です。

音楽を(というか、小説でも絵画でも、なにかの「作品」を)メッセージとするならば、そのメッセージをキャッチできるアンテナを持っているか、持っていないかでシューマンに対する共感度が違ってくるようです。私はどうやら・・・アンテナを持っていないようです・・・。