マルクス・アウレリウスは『自省録』において、「笑止千万なことには、人間は自分の悪を避けない。ところがそれは可能なのだ。しかし他人の悪は避ける。ところがそれは不可能なのである」と書き記しています。

これは、「自分でコントロールできることは、コントロールできる。自分でコントロールできないことは、どうしようもない」ということを言いたいようです。

もっと分かりやすく言うと「禁酒、禁煙は自分の意志の問題だから、やめようと思えばやめることができる。しかしえてして続けてしまいがちなものだ。一方、人から悪口を言われたり、足を引っ張られたりするのは避けようとするが、これは他人のやることだから、自分の力の及ぶところではない」とでもなるでしょう。

これはシェイクスピアの数々の作品のうち、『ハムレット』とか『マクベス』のような「性格悲劇」がとくに傑作である理由と一脈通じるものがあるようです。

『ロミオとジュリエット』のような悲劇作品はちょっとしたアクシデントとかその人の責めに帰すものではない事柄が悲劇に結びつくというものでした。ということは、もしかすると時間を巻き戻してもう一度やり直したら、悲劇は起きずにハッピーエンドだった可能性があります。

他方で『ハムレット』のような性格悲劇はどうでしょうか。主人公ハムレットは優柔不断な性格ゆえに、行きつ戻りつしながら決断を下すタイプです。この性格がもとでドラマが進行していきます。そしてその性格ゆえに悲劇を招くことになります。また、ハムレットでもマクベスでもそうですが、人間の弱さや複雑さを鋭く描写することで、観客や読者に普遍的な共感を呼び起こします。言い換えると、単純にヒーローとか悪役とかいった言葉で説明がつかないキャラクターであり、多面的で、時に英雄的でありながらも悲劇的な欠点を持っています。このような人間性のリアルな描写が、作品を傑作たらしめるわけです。

さて「笑止千万なことには、人間は自分の悪を避けない。ところがそれは可能なのだ。しかし他人の悪は避ける。ところがそれは不可能なのである」についてですが、性格悲劇の主人公たちは結局は破滅してしまいますが、それは「自分の悪」から生じたものに他なりません。そして彼らはまったくそのことに気がついていないようです。自分の性格に自分が振り回されて、自覚がないまま失敗に向かっていく。なんという悲劇! しかもどの作品もそうですが、性格が仇となっているにもかかわらず、読んでいると不可避の運命によって追い詰められているようにも感じられます。果たしてこれは自分のせいなのか、人智を超えた運命のせいなのか・・・。この相互作用は、私たちに「自由意志」と「宿命」というテーマを考えさせることにつながります。

おそらくシェイクスピアもこれらを書いているうちに気分が乗ってきたのでしょうか、美しく力強い台詞や詩的表現が散りばめられており、物語の悲劇性を一層高めています。これは翻訳というプロセスを経て現代の日本語に移し替えられていても読めばすぐにわかるはず。この文学的価値もまた、これらの作品が傑作とされる理由の一つでしょう。・・・ただ・・・、『ハムレット』にせよ『オセロー』にせよ、読むと疲れるんですよね・・・。