勉強のためにヴァイオリニストのリサイタルに足を運ぶというのはとてもいいことです。あの曲をこの人はどんなふうに表現しているのか。それを知り、また自分でも実践可能かどうか考えてみるのは勉強になるでしょう。そうやって試行錯誤を繰り返して、自分なりの表現に磨きをかけてゆければ最高ですね。実際には途中で眠くなったり、プログラムに掲載された作品がそこまで好きな曲ではなかったりして、「ああ、素晴らしかった」と思えるコンサートなんてごくわずかなのですが。
それでも東京に暮らしていると山のようにコンサートがあり、つい足を運んでしまいます。
この、「行こうと思えば行けてしまう」というのがけっこう危険なことなんじゃないかと思い始めました。
あえてコンサートに行かない
なぜコンサートに行かないのか。べつにチケット代をケチっているわけではありません。
『ロングゲーム 今、自分にとっていちばん意味のあることをするために』という書籍によると、音楽起業家から作家に転身したとあるアメリカの成功者の事例として、『「すごい! 最高! 絶対やる! 何があってもやる!」と感じないのであれば、やらないのが正しい』という友人の助言を重んじているということが紹介されていました。これを守ることで、一流のプロにありがちな多忙な生活を回避できているようです。
私の判断もこれに近く、良さそうなコンサートがあっても行かない、ということがしばしばあります。なぜ行かないのか。それは、隠された様々なコストがあるからです。
コンサートホールに移動するまで片道小一時間もの時間を失い(往復2時間弱の損失)、電車で知らない人と同じ空間を共にするという不快感、「私は移動という価値を生まない作業で時間を失っている」という自覚から生じる不快感・・・。コンサートに行くという決断をすると、こういうマイナス面がついてくるわけです。
これは、機会費用という考え方に通じるものがあるでしょう。あ機会費用とは、ある選択をすることで得られるはずの他の選択肢の価値を指します。コンサートに行くことを選べば、そこで得られる感動や楽しさが直接の利益となります(つまらないかもしれないが、行ってみないとわからない)。でもその背後で失われる時間や他の活動の価値を見過ごしがちです。
コンサートに行かない選択をすれば、その時間をランニングや自分のヴァイオリンの練習にあてることができます。土日に人と会わない、接しない、電車にも乗らないという選択肢を選ぶことは、精神的な余裕を生む貴重な機会といえます。また、コンサートにかかるチケット代や交通費を節約し、もっと別のことに使ってもよいでしょう。
このように、コンサートをあえてスルーするという決断には、一見すると見えにくい価値があります。機会費用を意識することで、限られた時間という資源を活用する力を養うことができるのです。
コンサートに行かない選択をすれば、その時間をランニングや自分のヴァイオリンの練習にあてることができます。土日に人と会わない、接しない、電車にも乗らないという選択肢を選ぶことは、精神的な余裕を生む貴重な機会といえます。また、コンサートにかかるチケット代や交通費を節約し、もっと別のことに使ってもよいでしょう。
このように、コンサートをあえてスルーするという決断には、一見すると見えにくい価値があります。機会費用を意識することで、限られた時間という資源を活用する力を養うことができるのです。
「行けるから行こう」という判断をしていると、「果たしてそれは、今の自分にとって真に必要なものなのか?」という問いかけは見落とされがちで、イベントに追われて消耗してしまうだけとも言えます。あえてコンサートに行かないという選択肢も十分アリでしょう。
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