世の中には音楽作品は無数に溢れています。モーツァルトだけで600曲ほどあります。その中でも有名どころ、たとえば「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を知っていると思っていても、人にその曲をわかりやすく解説できるほど熟知しているかというと必ずしもそうではありませんね。せいぜいCDのブックレットを読めば書いてあるようなことをとりあえず語るくらいが関の山ではないでしょうか。

では『大地の歌』はどうか。『トリスタンとイゾルデ』は? 『浄められた夜』は? 『未完成』は? たぶんもっとひどいでしょう。自分ではその曲はいい作品だとは分かっていても、他人にその曲がどういう曲なのか理解してもらえるほど、自分が把握していない。

いったいなぜ?

答えはわりと簡単で、自分が楽譜をきちんと見ていないから。なぜきちんと見ていないのか? それも単純で、聴くという行為はそんなことしなくてもスピーカーの前にいれば大丈夫。音が耳に入ってきます。つまり楽譜を見る必要に迫られていないからです。言い換えると、自分が演奏するためにしっかりと楽譜に向き合うようにならないと、深く理解できるわけでもなく、またその作品を隅々まで真剣に聴くようにならないということなのでしょう。ただし世の中には丸山眞男のように日本政治思想史を専門とし、器楽奏者ではないのに楽譜をたくさん持っていて、いろんな音楽にやたらと詳しいというとてつもない人もいますが・・・。

要するに、いざ人前で演奏や発表をする立場になった場合、鑑賞とは異なる緊張感と責任感が生まれます。これが、作品を真剣に聴き、理解しようとする原動力となるんですね。

人前で作品を演奏するには、単に演奏技術や音程の正確さだけでなく、作品全体の流れや表現意図を理解することが必須となります。演奏者つまり自分は、楽譜に込められた意図やメッセージを感じ取り、それを再現する使命があります。この責任こそ、作品のすべてのディテールを丁寧に聴き、解釈しようとする姿勢を生むものだと言えるでしょう。

したがって、「人は、その作品を人前で演奏する立場になって初めてその作品を真剣に聴くようになる」という命題は、『聴く人』と『する人』の意識の違いを明確にしたものです。演奏者としての経験を通して、作品を深く理解し、真に自分のものとして表現するプロセスは、単に聴くことだけでは得られない学びに満ちあふれている・・・はずです。

そして皮肉なことに、演奏家つまり私がいかに苦心惨憺してベートーヴェンやモーツァルトを仕上げても、その結果「ワイってまじですげえ! 感動した!!」なんて思っていても、『聴く人』は案外「つまんねえ演奏だな。はー早く帰りたい」とか思っていたりするものです。なにしろ、普通のプロオーケストラの演奏会ですら、演奏の出来栄えいかんによっては白けた空気がコンサートホールに漂うくらいですから、アマチュアの演奏など推して知るべし。つまりは「仕事は自分がするもの、評価は他人がするもの」ということでしょうか・・・。