このブログで何度も何度も繰り返し書いたとおり、ヴァイオリンというのはとにかく難しい楽器です。子供のころから自分に適性があって、親もその適性を認識していて、その適性を伸ばしてやろうときちんと環境を整備して、継続できて(そもそも子供に毎日かならず一定の時間ひとつのことに集中的に取り組ませるということ自体至難の業なのだが)・・・、という条件が揃わなければ、メンデルスゾーンとかシベリウスの協奏曲にたどり着くことはまずないでしょう。

しかしこれは才能と経済力の双方が揃っていることが前提になり、そんなものは本人の意志や努力以前のところにあります。人は結局自分の持っているものを伴って自らの人生を生きていくしかないのでしょう。「置かれた場所で咲きなさい」とはそういうことを言いたいのでしょう。べつにブラック企業に就職したらずっとそこにいろということではなく、自らの天命を受け止め、たとえ限られた能力・環境であってもその中で人生を味わい尽くせということでしょう。

ちなみに若くしてメンデルスゾーンの協奏曲を弾きこなしたとしても、そもそも日本人でクラシック音楽を日常的に愛好する人は人口の1%程度だと言われています。要するにヴァイオリンが上手くても仕事がない・・・。

それはさておきそのような才能の無い私も日々ヴァイオリンを練習していると、少しずつレベルの高い曲を課題曲として先生から与えられるようになります。地道に練習していると段々と弾けるようになります。そしてある日気づきます。

「なんだ、この曲は弾けるようになったのに、その間に別の曲がまったく弾けなくなっているじゃないか!」

そう。ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタが弾けるようにと努力しているうちにそれは演奏できるようになっても、その間にベリオの「バレエの情景」はほとんど練習しないので、「バレエの情景」はまったく弾けなくなっています。

そればかりか、その前に練習したモーツァルトのヴァイオリン協奏曲とか、バッハのヴァイオリン協奏曲とか、一応曲は知っているうえに楽譜もきちんと読めるのに、いざ弾こうとすると運指を忘れていたり、ボウイングの上下がわからなくなってなんとなく適当に先に進んでしまったり・・・。

要するに上達しているように思っていたのはほとんど錯覚で、「その曲が弾けるようになっただけ」であって、基礎力が充実したわけでもなければ記憶力が向上したわけでもなありません(だから忘れる)。いわば、グラスに水を注いで傾けてみればある側面は水が深くなりますが、別の側面は浅くなります。でも水の総量は変わったわけではありません。一部だけ深いからといって水が増えたとは言えないでしょう。

自分のヴァイオリンもそんな感じなのではないか、日々堂々巡りを繰り返して歳を重ね、老化が進んでにも関わらず「将来東京藝術大学に進学するであろう小学1年生」よりも遥かに下手くそなまま死んでゆくのではないか・・・。いやたぶんそうなる、いや絶対そうなる・・・。

ヴァイオリンの練習とはそういう諦めとの戦いでもあり、敗北を運命付けられたようなものです。
うーん、だからみんな挫折していくのか。私は友だちがいなくて他にやることがないから続けられている、そういう人生に感謝すべきかもしれません。「置かれた場所で咲きなさい」とはこのことでしょうか。