ヴァイオリンの世界にはいろいろと非科学的な? 話が結構あります。まあそれ以上に理不尽な話もたくさんあるんですけどね・・・。
理不尽なといえば、まず音程が安定しません。
子供の頃にピアノを練習していた人なら、音程を確保することはそれほど難しいことではないのかもしれません。しかしながら大人になってヴァイオリンを始めた人にとっては音程を正しく確保するということ、ただそれだけなのにものすごく難しいことなのです。
だから毎日毎日何回も何回も繰り返し、小野アンナのような音階練習を地道に続けて正しい音を体に染み込ませていく以外に上達の方法はありません。そして音程が狂っているとそれだけでものすごく汚く聞こえてしまいます。だからこそ正しい音程を確保するということはとても大事です。はっきり言って、ヴァイオリンは音程が9割・・・いや・・・10割といっても過言ではないでしょう。
ようやく正しい音が取れるようになっても 作曲家が楽譜に書いてあることを忠実に音として再現することもとても難しい。クレッシェンド、デクレッシェンド。ディミヌエンド、レガート、その他もろもろの曲想を指示した書き込みを全て再現することは当然であって、どの部分をどんな風に盛り上げれば良いかというのはその人のセンスによってかなり左右されますから、音程が正しくても曲のドラマとして つまらないということだって十分あります。なんと理不尽なことでしょうか。
私が今練習しているパガニーニの「カンタービレ」という曲も音程を取ること自体が難しいです。なぜならゆっくりとしたテンポの曲なのはありがたいのですが、 それでも細かい音符が連なっていたりすると正しい音で響かせることに大変な困難を感じます。
だから毎日毎日何回も何回も繰り返し、小野アンナのような音階練習を地道に続けて正しい音を体に染み込ませていく以外に上達の方法はありません。そして音程が狂っているとそれだけでものすごく汚く聞こえてしまいます。だからこそ正しい音程を確保するということはとても大事です。はっきり言って、ヴァイオリンは音程が9割・・・いや・・・10割といっても過言ではないでしょう。
ようやく正しい音が取れるようになっても 作曲家が楽譜に書いてあることを忠実に音として再現することもとても難しい。クレッシェンド、デクレッシェンド。ディミヌエンド、レガート、その他もろもろの曲想を指示した書き込みを全て再現することは当然であって、どの部分をどんな風に盛り上げれば良いかというのはその人のセンスによってかなり左右されますから、音程が正しくても曲のドラマとして つまらないということだって十分あります。なんと理不尽なことでしょうか。
私が今練習しているパガニーニの「カンタービレ」という曲も音程を取ること自体が難しいです。なぜならゆっくりとしたテンポの曲なのはありがたいのですが、 それでも細かい音符が連なっていたりすると正しい音で響かせることに大変な困難を感じます。
私は ある程度練習が進んだところで先生に相談してみました。「私の今の演奏、音程が微妙ではなかったでしょうか?」すると先生はこう答えてくれました。「どういう演奏をしたいのか、自分なりにそのイメージに向けて練習をしていく。そして曲が仕上がってくると音程も正しいところにはまってくる」。 私はこれを聞いてなんと非科学的なと思いました。普通、音程が正しく取れるようになって初めてスタート地点で、そこからようやく曲の表現というところに行けるのだろうと思っていました。ところが全く逆でした。先生の説明では自分のイメージに曲が近づいてくると音程もまた正しくなってくるというのです。一体なぜだろう? 私には全く分かりませんでしたが、先生がそう言うからにはきっとそうなのでしょう。ヴァイオリンにはまだまだ非科学的なこと(というか私の理解が及ばないこと)がたくさんあるな、と改めて実感しました。
それにしても、せっかく人前で演奏できるくらいのクオリティに到達しても、数ヶ月演奏しないだけでボロボロになってしまうのは一体何でしょうか。賽の河原で石を積むとかいうやつにも似たこの理不尽。自転車はしばらく乗らなくても、すぐに感覚を取り戻して普通に運転できるようになります。ヴァイオリンはそうは行きません。またかなりの部分がやり直しになり、時間がかかってしまいます。おかげでどんな理不尽も「ああそうかな」で済ませられる無駄な忍耐力だけは養われるのが唯一のメリットでしょうか。
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