ヴァイオリニストなら一度は人前で演奏してみたいのがバッハの「シャコンヌ」です。
無伴奏曲である以上、たった一人で舞台に立ち、およそ15分にわたって難しい技巧の連続を次々とクリアしなければなりません。「シャコンヌ」が入っているのはパルティータ第二番ニ短調。「シャコンヌ」の前にはアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグが並んでいます。大ボスの前の小ボス、中ボスといったところでしょうか。実際のところ、「シャコンヌ」は257小節あり、先行する4つの楽章よりも長くなっています。
全体は大きく3つの部分に分けられます。
1.128小節までのニ短調の部分
2.208小節までのニ長調の部分
3.その後のニ短調の部分
とくに2番めの暖かみのあるメロディが好きだという人は多いでしょう。私もその一人です。でも本当は違いました。メロディに注目してはいけませんでした。
メロディに注目してはいけない「シャコンヌ」
NHK交響楽団のコンサートマスターを務めた篠崎史紀さん。『MAROの"偏愛"名曲案内』によると、最初に演奏しようとしたとき(なんと小学生のとき!)は重音の多さと、楽譜の情報量の少なさに挫折した、と書かれていました。
たしかに難しいわりには、バロック時代の楽譜は演奏上の指示が少く、かなり自由度が高い反面、どうやって演奏したらいいのか分からなくなるという難点があります。
篠崎さんはその後中学生になって、この曲のテーマは実はメロディではなく、長い音符で動くオスティナート・バスだということに気づいたといいます。でもよく気づきましたね。たしかに現代人の感覚から言えば、メロディに注目してしまうのはごく当然のこと。しかし一番大事な動きは別に存在していたのでした。それがバス声部。
そこで篠崎さんは楽譜を丹念に調べ、テーマを探して各声部の色分けを始めました。それが完成した時、楽譜はもはや塗り絵か、と言いたくなるようなカラフルなものになっていたそうです。
たしかにバッハは対位法、和声法、通奏低音といった作曲法に通じており、こうした作曲の基礎工事に相当する部分が確固としているため、彼の作品を学ぶということは西洋音楽の真髄と向き合うこととイコールになります。
聴いているほうは、シャコンヌ(チャッコーナ)という踊りをイメージしてメロディに注目していればそれで十分かもしれません。でもバッハは踊りの音楽という形式を用いつつも、低音だけはまったく揺るぎないものを「シャコンヌ」のなかにしっかりと織り込んでいました。だから演奏する立場としては、その部分をはっきりと意識しなければなりません。たとえお客さんがそのことに気づいてくれなくても。(いや、そういうところに気づける聴きてこそ「通」なのでしょう。)何度も何度も(研究者によって32回と言ったり、64回と言ったりしている)現れる変奏を確実に演奏するだけでも大変なのに、低音部は揺るぎないものにしなければならない。
バッハの「シャコンヌ」に似たような曲は、たとえばヴィターリの「シャコンヌ」とか、コレルリの「ラ・フォリア」などいろいろありますが、バッハの「シャコンヌ」が隔絶たる地位を占めているのは、おそらくこういうところにあるのでしょう。私には弾ける気がしません。
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