以前の記事で、チャイコフスキー・コンクールのヴァイオリン部門で日本人として初の1位に輝いた諏訪内晶子さんが、演奏活動を継続するということは身を削ることだということに気づいてコンサートを行わなくなり、研鑽を積むためにアメリカに留学したということを書きました。
数年後、学修を深めた彼女はブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第1番』と『スコットランド幻想曲』のレコーディングを世に問い、改めてヴァイオリニストとしてのキャリアをリスタートさせています。私もこのCDを持っていますが、折り目正しく踏み外すことのない、かといって力み過ぎることのない美しい演奏になっています。ネヴィル・マリナーが指揮するアカデミー室内管弦楽団の献身的なサポートもあって、名盤と言えるでしょう。
他方、NOと言えずに苦しむ音楽家もいました。同じチャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で1位を獲得したアメリカ人ピアニスト、ヴァン・クライバーンでした。
冷戦時代のさなか、数々のコンクールではソ連の若者が優秀な成績をおさめる一方、アメリカ人の音楽家は思うように活躍できず、さらには宇宙開発でも先を越されてしまい米国は焦りをつのらせていました。そして1958年、ソ連は「アメリカもチャイコフスキー・コンクールに参加してほしい」という話を持ちかけました。「チャレンジするのは構わないけど、どうせソ連勢が勝つよ」という威嚇と理解して差し支えないでしょう。
ところがこのコンクールで1位に輝いたのはアメリカの若者、ヴァン・クライバーンでした。審査員のリヒテルを始めとし、熱狂的な支持を得ての堂々の成績でした。政治的な意図があって始まったコンクールでしたが、ソ連の狙いとは真逆の結果が出てしまいました。ニューヨークに凱旋したクライバーンを迎えたのは60万人もの市民でした。パレードが開かれ、ワシントンではアイゼンハワー大統領が出迎え、ホワイトハウスでは祝賀会まで開かれました。
そして彼がコンクールで演奏したチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』のレコードは大ベストセラーを記録しました。クラシックの音楽家でこれほど熱狂的なブームを巻き起こすということは前代未聞ですし、この先もこんなことはないでしょう。
しかしながらその先が大変でした。彼もまたコンクールで1位になって大変な有名人になりました。でも彼も向上したのは知名度であって実力ではなく、レパートリーが充実したわけでもありません。というわけでチャイコフスキーとラフマニノフの協奏曲ばかり弾かされ、批評家からは「まるでジューク・ボックス」「音楽スポーツ界のチャンピオン」などと揶揄されることになります。(たとえばAKBの総選挙で実力もないのにいきなり高位入賞してTV出演が激増すると似たようなことが起こりがちです。)
彼は43歳で引退してしまいます。ピアニストの中村紘子さんは、その後も何度か人前で演奏をしていたようですが、「その演奏そのものは、もはや正面切ってどうのこうのといえるような対象ではなくなっていたようです」と評しています。
要するにクライバーンはアメリカ社会に消費されて終わってしまったのであり、諏訪内晶子さんのようにNOが言えなかったのでしょう。言えなかったのか、言わなかったのかはわかりませんが、言うべき時にNOと意思表示しないとどうなるのかを示した一つの事例ではあります。
参考文献
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