この世で難しいことは色々あります。甲子園に出ること、金メダルを取ること、芥川賞を取ること、100mを8秒で走ること、フルマラソンで2時間を切ること、大統領になること、宇宙へ行くこと、火の中で暮らすこと、水の中で生活すること・・・。この中には無理なものももちろん含まれています。

一般生活の中では、NOと言うことは中々難しいものです。内向的な性格の人はきっと同意してくれるでしょう。でもそれを利用して、自分がだらしない埋め合わせを弱気な人にやらせようという者も世の中にはいます。困ったものです。だからこそ、大事な場面ではNOとハッキリ言えるようにならなくてはなりません。

NOと言うべきときに本当にNOと言うことが大切なのは、ヴァイオリニストとかピアニストもそうです。
ヴァイオリニストの諏訪内晶子さん。チャイコフスキー・コンクールで日本人初の1位獲得ののち、コンサートの依頼が殺到しました。しかしこれに応えているうちに、自分の身が削られていることを実感するようになったようです。
チャイコフスキー・コンクールでもてる総ての力を出し尽くし、一転して注目される立場になってしまった私には、新しい曲を技術的に自分のものにすることは出来ても、作曲者の意図や、曲の魂を我がものとし、それを聴く人に納得のいくように伝える精神的な咀嚼力を、もつ余裕がなかった。

(『ヴァイオリンと翔る』より)
言うまでもなく、チャイコフスキー・コンクールで1位に輝いたということは、技術的には申し分なく、練習すれば弾けない曲はなかったはずです。それがパガニーニであってもイザイであっても。だから、次から次へとやってくる演奏依頼に応えることは技術的には十分であっても、芸術的には疑問符がついてしまうような水準だったことを彼女は自覚していました。スターンには「可能な限り自筆譜にまで遡って勉強し、自分で表現法を考えなさい」とアドバイスされていたものの、そんなことができるだけの時間的余裕があるはずもなく、また、チャイコフスキー・コンクールで1位になったからといっても、上がったのは知名度であって腕前ではありません。ゆえに、「学生として教師に教わって弾けるようになった曲」だからといって、「お金を取ることを前提にプロとして披露できる」こととイコールではなかったのです。

このことに気付いた諏訪内晶子さんは、1991年秋には演奏活動を中断して改めて学業に専念することを決意しています。そして翌年の10月末には事前に契約していたすべての演奏活動を終え、ニューヨークのジュリアード音楽院に在籍することになったのでした。

自分が放電ばかりを繰り返し、充電できていないことを悟り、留学を選んだのは長期的に見て明らかに良い結果をもたらしました。逆に、NOと言えない性格で頼まれるがままに演奏活動を継続していたら、「いつかのチャイコフスキー・コンクールで1位になった人」として単純に消費されるだけで一発芸人のような立ち位置になっていたかもしれません。まあ、NOと言えないような性格であったとしたら、崩壊前のソ連のコンクールにエントリーするなんていう暴挙に出るはずもないか・・・。

諏訪内晶子さんのこの辺りのエピソードを調べていると、改めて「NOということの大切さ」に思い医を致さずにはいられませんでした。