ほぼ同じ時代を生きたヘンデルとかヴィヴァルディと比べると、バッハの作品は、完成度こそ抜きん出ているものの、どうしても重苦しくて最後まで聴いてらんないよ、という気分になることが多いのもまた事実です。
たしかに『マタイ受難曲』とか『無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ』とか無数のカンタータとかオルガン曲は歴史に残る傑作でしょう。無伴奏曲では、ヴァイオリンとチェロ。人類はこの後、これを上回る無伴奏曲を作り上げることができませんでした。
しかしバッハの作品には弱点がありました。聴いていて疲れるのです。ヴァイオリニスト・神尾真由子さんのヴァイオリンリサイタルでは、バッハの無伴奏曲ばかりを取り上げて、終演後に「聴くほうも修行のようなのに、わざわざ足を運んでくださってありがとうございました」と述べていました。お客さんはチラシを見て、プログラムが何なのか分かったうえでホールにやってきているわけですから、弾く方も聴く方も必死。伊達と酔狂とはこのことです。
一体こんなに疲れるのか・・・。理由を考えて見たときに、バッハが得意とした楽器がオルガンであったことが災いしているのではないかと思い当たりました。もともとバッハは対位法の大家であり、彼の音楽は複雑な声部の重なり合いを特徴としています。この複雑さが、聴き手にとって重厚感や圧迫感を与えることがあります。しかも大抵の場合厳格な形式や構造を持っており、自由な表現よりも秩序と規則性が重視されています。この規律正しさが重厚感を与えています。
でも対位法なんて、ヴァイオリンでは不可能。言うまでもなくヴィオラでもチェロでも無理。フルートでもオーボエでもできません。でも鍵盤楽器なら右手と左手で役割を変えることで可能になります。仮にバッハがチェンバロが得意だったならもっと軽やかな作品になっていたはずです。でもバッハの職業は教会オルガニスト。オルガンは音色が重く響きます・・・。
オルガニストだったブルックナーもそうですが、彼の交響曲はオルガン的発想が随所に見られるという点でバッハに似ています。でも彼は19世紀後半という時代が幸いして大型オーケストラを前提に作曲することができ(18世紀ではそんな環境はどこにも整備されていないし組織されてもないので大型オーケストラという概念を誰も持っていない)、ドイツの深い森やアルプスの花畑をイメージさせるような爽快感もまた醸し出しています。
他方でバッハは・・・、彼の作品を聴いていると多くの場合オルガンの響きが前提になっているようで、ほとんど不可能なはずなのに無伴奏曲にオルガンのような和音を想像しなければ演奏できないなんて理不尽にも程があります。
ヴィヴァルディはヴァイオリンが得意でした。だからあんなに沢山のヴァイオリン協奏曲を書いていて(というか、1曲を何百回と書き換えた?)、しかも横にスラスラと流れていくような作風なのですね。パガニーニもやはりおしなべて横に流れるタイプの音楽です。
ヘンデルが得意としたのは「声」。オラトリオやオペラを山のように作曲しました。ほとんどは「劇」と関わりがあります。「劇」である以上はお客さんを喜ばせたり、カタルシスを得させることが前提になりますから、バッハのような「修行」とはまた違う世界です。
こう考えると、「その作曲家が親しんでいた楽器は何か?」はその人の作風にまで影響を与えてしまうようですね。そう思えてなりません。
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