よくもまあ次から次へとこんな事件があるものだとつくづく思います。

いわゆる「頂き女子」の手口で男性から金をだまし取った疑いで、今度は「のんちゃん」と名乗る女が逮捕されました。

詐欺の疑いで逮捕されたのは、名古屋市東区に住む美容クリニックの看護師で、「のんちゃん」こと浮田妃菜容疑者(21)です。

浮田容疑者は専門学校生だった去年、愛知県清須市に住む58歳の会社員の男性から現金106万円をだましとった詐欺の疑いがもたれています。

浮田妃菜容疑者
「実はこの袴がずっと素敵だなあと思っていたんです。けどすぐには払えないので困ってました」
会社員男性(58)
「きれいだね、うん。いいね。ネット予約制かね。お支払いは、いくらぐらいかかるの?のんちゃんに絶対に似合っているよ!」

男性から袴のレンタル代金として10万円を受け取ると、感謝の言葉を記した手紙も送っていましたが、その後、連絡がとれなくなりました。浮田容疑者は警察の調べに対して、「ホストクラブに通い、お金が足りなくなったため」と容疑を認めているということです。

(https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1238545?display=1より)
このような頂きの手口は周知のとおりマニュアルが出回っており、そのパターンに則って女性が男性心理を誘導し、最終的に男性が養分となって多額のお金を持っていかれて終わりというのが一連の流れです。
女性は、ターゲットとなった男性に対して「私は男性に対してこういう気持ちになったことがない」などのような相手の自尊心や自己肯定感をくすぐるような言葉を操り、また「学費が足りずにどうのこうの」「DV家庭で育って云々」「それでお金が必要だがどうしても工面できない」などのようなことを訴えて「私が助けてやらねば」というムードを醸し出してゆきます。

少しは疑えよ、と言いたくもなるのですがそれは岡目八目というやつで、第三者だからこそそういうツッコミができるわけであって、当事者は当事者としての視点しか持ちえないわけですから、車が買えてしまうようなお金を払ってしまうわけですね。

まさに、「私が助けてやらねば」という気持ちへ誘導させるのが頂き女子の真骨頂であり、「私が必要とされている(私にも誰かを助けるだけの力があるのだ)」、そして「この人の気持ちに寄り添いたい」という、私は善行を積んでいるのだという自己肯定感・自己愛こそが男性の、というかヒトに備わったセキュリティホールなのでしょう。なにしろ人と人との連帯感・絆こそ、人が社会を形成して繁栄していったことの根幹をなす感情であり、人が人である証であり、だからこそたとえばマザー・テレサは死ぬと分かりきっている人の看取りを続けたわけです。

遠藤周作さんは、イエスが処刑された後に神格化され、キリスト教が世界的な宗教となっていった理由の一端について、著作『キリストの誕生』でこう述べています。
人間がもし現代人のように、孤独を弄(もてあそ)ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処(どこ)かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。

だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史のなかで多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ。
ここではキリスト教の特質と教会のあゆみが端的に説明されており、『キリストの誕生』の結びの言葉でもあります。

いかがでしょうか。私たち人間は同伴者を探し求めるという性質があるかぎり、その胸の奥底には必ず「愛」があります。誰かに応えてほしいという望みが・・・。そしてそれが他者に対する人間の条件であるなら、誰かに応えたいという願いも共存しているはずです。

要するに、頂き女子の手口というのはそういう人間の感性の根本的な箇所を(実行者はそれを意識していないにせよ)突いてくるのであり、ある意味よく出来ている手法だと逆に感心してしまいます。