私は以前エレキギターを演奏してバンドもやっていたのですが結局長続きしませんでした。理由は色々あるのですが、つまるところエレキギターという・・・、いや機械を使って音を増幅させる式の音楽では音色がヴァイオリンやピアノに比べるとどうしても単調になり、平板で薄っぺらく、コクがなくて音楽の「音」というよりもアラーム音に近く、面白いとは思えなくなっていったのが原因です。
さらに、ロックバンドの演奏を日本武道館などで耳にするにつけ、音色や響きを味わうというよりも早いテンポや大音量で興奮させる傾向の表現が目立ち、「なんだこれは、お客さんはみんな興奮と感動を履き違えてるんじゃないか?」という気がしてきてしまい、これまたエレキギター離れを加速させました。
ヴァイオリニストであり諏訪内晶子さんや矢部達哉さんを育てたことで知られる江藤俊哉さんはバッハの無伴奏やブラームスのヴァイオリン・ソナタを収めた「THE ART OF TOSHIYA ETO」という4枚組のCDに「私のバッハ」という一文を寄せ、真に質の高い音楽とは何か、を考察しています。そこには、小学生のときコンクールの自由曲であるサラサーテの「カプリス・バスク」を練習していたが、途中からバッハの協奏曲を並行して始めたところ深い感動を受けたというのです。それまでレコードで聴いていたのはいわゆる小品集ばかりでしたが、バッハの作品はそれらとはまったく異なっていました。
今まで音楽と思っていたのと完全に違う世界の発見であった。こんな崇高な、宗教的な、人間の心を深く抉り得る音楽、これだけのみが本当の音楽なのだと、一切他の音すら聞きたくない心境で何日も何日も過ごしていた。しかしコンクールの自由曲のサラサーテのカプリス・バスクも練習せねばならず、極く最近まで素晴らしい音楽であったのが、如何にもつまらない通俗的な曲に成ってしまい、それでもサラサーテの方は案外上手に奏けるのに、バッハの方はなかなか思う様にならず、子供なりに非常に悩み、恨めしく自分の幼さを嘆いた。
江藤少年はやがてカトリック系の中学校に進学します。学内のチャペルに設置されていたオルガンやヴァイオリンでバッハのコラールや組曲、無伴奏曲を夜、誰ひとりいない静けさのなかで演奏する彼は、次のようなことに気づきます。
夜の教会での時間はいろんな事に気が付かせてくれた。早いテンポの何と空しい事か、バッハの残して行った一つ一つの音符に込められているその重要さ、その尊厳さは、空しく軽く飛んで行く音では絶対に表現出来ない。
「空しく軽く飛んで行く音」は、この文章の前ふりに登場するパレストリーナやペルゴレージを指しているものと思われます。パレストリーナやペルゴレージだって十分立派な作曲家ではあるものの、バッハには到底及ばないと江藤俊哉さんは結論づけています。
中学生のときにこのことに気づいたということは、その時点でそれだけの音楽的素養と適性があったということであり、その後の活躍を暗示させるものでもあります。
それにしても、「空しく軽く飛んで行く音」というのは私が日本武道館なり、横浜アリーナなりで散々耳にした音でもあります。刺激的だから、興奮するから、テンポが早いからといって、それが音楽作品として充実しているわけではないのです。
コメント
コメント一覧 (2)
一人はYouTubeで現在活躍されているSean Mannというギタリストです。彼のJimi Hendrixのカバー(Voodoo Child, Bold as Love, Wait Until Tomorrowなど)は、何度聞いても飽きません。近々デビューアルバムを発表する予定だそうです。
もう一人は、名越由貴夫氏という、スタジオミュージシャンの方です。Charaのライブ盤Live 97-99 Moodを、私は繰り返し繰り返し、何度も聞きました。近年のYUKIとの録音も、スタイルは洒脱なものに変化していますが、素晴らしいと思います
コメントいただき、誠にありがとうございます。そのようなギタリストがいらっしゃるのですね。いずれも聴いたことがないので、今度動画サイトなどで調べてみます。