現代ヴァイオリニストの旗手であるヒラリー・ハーンは毎年のように何かしらCDをリリースし、そのたびに高い評価を獲得しています。何しろデビューアルバムがバッハの「シャコンヌ」を含む無伴奏作品であり、その後立て続けにベートーヴェン、バーンスタイン、バーバーといった古典から現代音楽などのCDを発売。彗星のように颯爽と登場しました。

このブログでも何度か書きましたが、私は彼女の演奏会を何度か聴きにいったことがあります。とくに印象的だったのが、シベリウスの『ヴァイオリン協奏曲』でした。みなとみらいホール1F後方の座席まで細かい音すべてが突き刺さるように飛んできます。あんな不思議な聴覚体験は後にも先にも一度だけでした。

逆にいまいちだったのがモーツァルトで、確かに上手いことは上手いのですが、なんだか入り込めない。彼のヴァイオリン・ソナタは超絶技巧は問われておらず、むしろ作曲家の言わんとするところにどれだけ接近できるかが鍵となります。もしかするとヒラリー・ハーンはモーツァルトが苦手なのか? と一瞬思ってしまいました。

2024年6月14日に読売新聞のウェブサイトに配信された記事「ヒラリー・ハーン&アンドレアス・ヘフリガー デュオ・リサイタル…舌を巻く巧さ、演奏芸の極致 」では、音楽評論家の舩木篤也さんが次のような批評を寄せていました。

彼女は、微光を帯びたその美音を、どんなに小さく絞っても、歌舞伎の名優よろしく大向こうまでしかと届けてくるから。そうして覗かせたかったのは、作曲家の内面だろうか? ブラームスは本作を、シューマンの息子の死に直面し、一種のレクイエムとして書いた経緯がある。

だがそんなハーンの意図も、そう斟酌できないこともないという話であって、作品をデフォルメせんばかりのやり方は、解釈の確かな伝達とはなりにくい。

巧さには舌を巻くのである。たっぷりと歌うし(第2番第3楽章)、重音は極上のコーラスのようだし(第3番第2楽章)、激しくとも決して粗くはならないし(同第4楽章)。だがそうした名技が、名技それ自体の展示に傾いていなかったか?
ブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』は、彼が愛したクララの息子(ヴァイオリンが上手だったらしい)が結核で亡くなったことを受け、第2楽章に葬送行進曲のリズムを採用しています。このことを念頭に聴いてみると、優しい第1楽章も、ノスタルジックな第3楽章も、すべてがブラームスのメッセージであることが分かります。真に人の心を打ち、終生忘れ得ぬ感動を与える演奏であるためには、そうした作曲家の思いを汲み取り、高度な技術をもってそれを客席へ伝達する、技巧だけではない「何か」が求められるはずです。

しかしながら、どうやらハーンはかつて私が聴いたモーツァルトと同じく、ブラームスでも彼の思いにいまいち接近できなかったようです。まず記事タイトルからして「舌を巻く巧さ、演奏芸の極致」。要するに「技術は達者なんだけど、心が伝わってくるような演奏じゃないよね」という皮肉が込められているように聞こえます。なおかつ、「巧さには舌を巻くのである。(中略)だがそうした名技が、名技それ自体の展示に傾いていなかったか?」とある以上、舩木篤也さんはハイレベルな演奏技術には感心したが、感動しなかったことがうかがわれます。

ヒラリー・ハーンは頭がいいのか、真面目なのか、不粋なのか、賢すぎるのか・・・。頭で演奏できる現代音楽を演奏すると評価が高いことと、上記の批評は表裏一体のように思えてなりません。思えばそういう傾向があったのは昔からでしたが、となると人の性格というのは変わらないものなのでしょうね。