茶道とか華道とか歌舞伎とか剣道とか空手などには「型」というものがあります。「型」を身に着けてしまえば、「こういうときにどんな動作をしたらよいのか」という疑問を持つ必要がありません。自分で一から考えなくても、先人たちが同じ悩みを抱えて試行錯誤して、その結果「こういうときにはこの動作だ」という解決策を編み出して「型」というものにまとめ上げてくれています。だから自分の個性を捨ててまず型にはまるというのは、上達のための最短ルートといえるでしょう。

そもそも自分の個性が第一とされるのであれば、茶道だろうが空手だろうが100人いれば100通りのやり方ができてしまい、技能を教えることも次世代に伝えることもできません。これが小説=文字情報なら紙の上に印刷してしまえば永久に文章が残るので未来へ伝達可能です。でも「動作」を学習者に教えようとするなら、やはり「型」というものにはめ込んで板につくまでその動作を繰り返し体に覚え込ませるしかないでしょう。

ヴァイオリンをやればやるほど思うのは、その明確な「型」のなさについてです。


ヴァイオリンの「型」がない件

一応、弦に対して弓を直角に置いてまっすぐ引くという動作ができればきれいな音が出るということになっていますが、あくまでもそれは序の口であって、曲想に応じて硬い音や柔らかい音、突き刺すような音やささやくような音を出さなければなりません。そういうときは弓を弦に当てる箇所とか角度とかスピードとか力加減の調節が必要になります。でもそういうのは口で教えるのは難しいうえに、教師が右腕に感じていることを学習者に伝えるすべなどありません。してみせて、やらせてみせて、修正させて、それでもいまいち伝わらなくて、レッスンの後に帰宅して自分なりにやってみようとしたらはっきりと思い出せない、メモを読み返しても結局よくわからなかった、ということが起こりがちです。

演奏はあくまでも肉体労働であって、暗記ではありませんから「水兵リーベ僕の船」とか「身の上にシンパイアール参上する」のような語呂合わせも存在しません。もしかしたら協奏曲とかソナタを暗譜するための語呂合わせがあるのかもしれませんが、少なくとも私は聞いたことがありません。

さらには音程だって1mm違えば別の音になりますし、弓を買い替えたらやけに弾きやすくなったとかいう、「結局金持ちが勝つんだな」というムカつく真理に気づいたりします。

ものの本を読んでいると、一応弓の使い方についてはフランス・ベルギー式とかロシア式とかドイツ式とか、「型」らしきものが色々存在するらしいのですが、これも表千家・裏千家のようにはっきりと体系化されているわけでもなさそうですし、民明書房「これがフランス・ベルギー式運弓のツボだ」のような書物が販売されているわけでもなく、師匠から弟子へと直接指導の結果伝承されているらしく、万人がアクセスできる知見ではありません。

こうしたややこしさがあるため、ただでさえ難しいヴァイオリンの練習はますます難しくなるのです。我ながらこんなんようやるわ。