1日というのは24時間しかなく、そのなかから睡眠時間とか食事とか風呂とかトイレとか通勤とか仕事をする時間を除いていくと、自分がやりたいことに使える時間というのはじつはあまりないことに気づきます。たいていの人は社会人になって「1日ってこんなに短いんだ」と実感するようになります。なにしろ大学4年生ともなればほとんどの単位を取得し終わっており、内定が出てしまえば卒業まで毎日スカスカの時間割になります。人によっては大学に行く日よりも行かない日のほうが圧倒的に多いでしょう。

そして4月1日を迎えて社会人になると、就業時間が明確に定められており、遅刻しないために逆算して出勤し、そのために何時には起床し、という生活サイクルに突入します。そりゃ時間がなくなります。

しかし「時間がない」と本当に焦るようになるのは、育児に携わるようになる時か、あるいは仕事以外でやりたいことが出てきた時でしょう。そうなると不思議なもので、1日のうちに「これとこれをやりたい」と心底願うようになると、「やりたいことがない人」と付き合うのが苦痛になってきます。個人的実感から言えば、「やりたいことがある人」にとって時間はお金よりもはるかに貴重なもの。でも「やりたいことがない人」は往々にして時間をお金に替えています。「時間とは、あなたの人生の残り時間である」ということを理解していない人、時間に対する向き合い方が真逆の人と過ごすとイライラさせられるだけなので、付き合わないのがベストです。

そう思って生きていると、次の文章を読んだ時に深い衝撃を受けました。「生きている」ことへの自覚があまりにも深かったからです。

吸う一息の息、吐く一息の息、喰う一匙の飯、これらの一つ一つの凡てが今の私にとっては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く。やがて数日のうちには私へのお呼びも掛って来るであろう。それまでに味わう最後の現世への触感である。今までは何の自覚もなくやって来たこれらの事が味わえば味わうほど、このようにも痛切なる味を持っているものであるかと驚くばかりである。口に含んだ一匙の飯が何とも言い得ない刺戟を舌に与え、溶けるがごとく喉から胃へと降りて行く触感を、目を閉じてジッと味わうとき、この現世の千万無量の複雑なる内容が、凡てこの一つの感覚の中にこめられているように感ぜられる。泣きたくなる事がある。しかし涙さえ今の私には出る余裕はない。極限まで押しつめられた人間には何の立腹も悲観も涙もない。ただ与えられた瞬間瞬間を有難く、それあるがままに享受してゆくのである。
これは『きけ わだつみのこえ』の一番最後に掲載されている、木村久夫さんの手記です。大正7年、大阪府生まれ。昭和17年京都帝国大学入学。同年入営。昭和21年5月、シンガポールの刑務所にて戦犯刑死。享年28。戦犯とありますが、実際には無実であったらしく、「日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んで行ける」と書き残しています。

自らの死をじっと待ちながら、それでもなお今この瞬間は「生きている」ことを強く実感し、命があることの意味を真摯に見つめているその姿を冷静な筆致で記録し、これが『きけ わだつみのこえ』に掲載されることによって戦争を知らない世代にもこの言葉が伝えられることとなりました。
私はこれを読むと、いつもにも増して「時間とは、あなたの人生の残り時間である」ということを自らに呼びかけ、残された時間を少しでも有意義に使おうという思いを新たにせざるを得ないのでした。