私は過去の記事において、文字を文字通り読んでしまうことのアホらしさについて書いてみたことがあります。この記事のタイトルにある『きけ わだつみのこえ』とはかけ離れた、マッチングアプリについての記事でそのことに触れました。たとえば「尊敬できる男性が好きです」と女性の自己紹介文に書いてあるからといって、嘘をつかない人とか、いつも努力をする人を想像してはなりません。「尊敬できる」の中身を追求すると、単純に高収入の男と付き合いたいだけだった、なんてのは往々にしてある話です。
その他、
『きけ わだつみのこえ』もこれと同様の読み方をすべきであろうと思います。
私はなにも戦没者たちが高収入の男と付き合いたいだけの(しかも、そのことをもっともらしい言葉でカモフラージュしようとする)女性と同じだ、と言いたいわけではありません。
そうではなくて、学徒出陣などで出征していった兵隊たちが家族に寄せた手紙もまた、検閲を意識した文章にならざるをえなかったり、本当は戦争に参加などしたくはなかったのに社会の雰囲気から本心を書くことができなかったり、弱気な男だとご両親に思われたくなかったのであえて「忠良なる兵士」のポーズを取らなければならなかったり、といった事情を考慮し、「本当は彼らはこう言いたくはなかったのだろう。でもそう言うほかなかったのだろう。そういう言葉しか残すことができずに、二度と戻ることはないと覚悟しつつ故郷を後にしたのだろう」と思いながら読み進めなければならないのでしょう。
そういうことを考えながら『きけ わだつみのこえ』を読むと、この書物は涙なしには読めなくなりますし、戦没者が「英霊」と呼ばれる理由も納得がいくはずです。たとえば上原良司さんは、神風特攻隊の一員に選ばれた時には「死して日本を守るのだ」との手記を残しています。遺書には、「日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。この上はただ、日本の自由、独立のため、喜んで、命を捧げます」と記しています。
しかし、彼にはまだ言葉を伝えたい人がいました。だから彼は、愛読書であった「クロオチェ」という本を残し、この本文のところどころに◯を付けていました。この◯をたどっていくと、ある女性へ寄せた最後の言葉が浮かび上がります。
このような形でしか思いを伝える機会が与えられなかった、そういう辛い思いを若者にさせてしまったというまさにその一点を取ってみても、戦争はやはり憎まなければならないものです。戦争という極限状況にあって、「言葉」が文字通りの意味を持ちえなくなったり、本当のことを言えなくなってしまうという中で『きけ わだつみのこえ』に収録された文章は書かれたのだということに気づくと、平和の価値を改めて考えざるを得ないのでした。
その他、
「環境技術で世界をリードする〇〇テクノロジー株式会社」なんていう看板を街で見かけたとして、あなたは「へえ、この会社環境技術がすごいんだ」なんてそのまま信じるでしょうか。きっと信じないでしょう。「ああそうですか」くらいにしか思わないでしょう。
新卒採用の仕事をしろと上司に言われて目を通した履歴書に「私はリーダーシップがあります。バドミントン部の副部長で、地区大会に準優勝し」などと書いてあったとして、あなたはこの人にリーダーシップが備わっていると信じるでしょうか。これも信じないでしょう。
「高田馬場至高のラーメン」なんてキャッチコピーも、信じてはいけません。このラーメン屋が激ウマかどうかは客が決めることであって、あくまでも自称にすぎないのです。
つまり「誠実な男性が好き」「休日はジムへ行ったり友人とランチしています」なんていう自己紹介文は、あくまでも「そう書いてある」だけであって、至高のラーメンと同じく実態に基づいているかどうかはまったく別の話なのです。
え、ひどいことを書くと? いえいえ、世の中には「そう書いてあるだけ」の言葉で溢れかえっているじゃありませんか。学生の履歴書、都知事選の公約、東スポ、バラエティ番組の字幕、スマホの料金プラン・・・。「誠実な男性が好き」などといった自己紹介文もこの延長線上にあると理解すべきでしょう。
(過去記事「マッチングアプリOmiaiでプロフィールを盛る人。うそはうそであるとか見抜ける人でないと(マッチングアプリを使うのは)難しい。」より)
『きけ わだつみのこえ』もこれと同様の読み方をすべきであろうと思います。
私はなにも戦没者たちが高収入の男と付き合いたいだけの(しかも、そのことをもっともらしい言葉でカモフラージュしようとする)女性と同じだ、と言いたいわけではありません。
そうではなくて、学徒出陣などで出征していった兵隊たちが家族に寄せた手紙もまた、検閲を意識した文章にならざるをえなかったり、本当は戦争に参加などしたくはなかったのに社会の雰囲気から本心を書くことができなかったり、弱気な男だとご両親に思われたくなかったのであえて「忠良なる兵士」のポーズを取らなければならなかったり、といった事情を考慮し、「本当は彼らはこう言いたくはなかったのだろう。でもそう言うほかなかったのだろう。そういう言葉しか残すことができずに、二度と戻ることはないと覚悟しつつ故郷を後にしたのだろう」と思いながら読み進めなければならないのでしょう。
そういうことを考えながら『きけ わだつみのこえ』を読むと、この書物は涙なしには読めなくなりますし、戦没者が「英霊」と呼ばれる理由も納得がいくはずです。たとえば上原良司さんは、神風特攻隊の一員に選ばれた時には「死して日本を守るのだ」との手記を残しています。遺書には、「日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。この上はただ、日本の自由、独立のため、喜んで、命を捧げます」と記しています。
しかし、彼にはまだ言葉を伝えたい人がいました。だから彼は、愛読書であった「クロオチェ」という本を残し、この本文のところどころに◯を付けていました。この◯をたどっていくと、ある女性へ寄せた最後の言葉が浮かび上がります。
きょうこちゃん さようなら 僕はきみがすきだった しかしそのとき すでにきみは こんやくの人であった わたしはくるしんだ そして きみのこうフクをかんがえたとき あいのことばをささやくことを だンネンした しかし わたしはいつも きみを あいしている
このような形でしか思いを伝える機会が与えられなかった、そういう辛い思いを若者にさせてしまったというまさにその一点を取ってみても、戦争はやはり憎まなければならないものです。戦争という極限状況にあって、「言葉」が文字通りの意味を持ちえなくなったり、本当のことを言えなくなってしまうという中で『きけ わだつみのこえ』に収録された文章は書かれたのだということに気づくと、平和の価値を改めて考えざるを得ないのでした。
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