このことは過去に何度か記事にしました。それでもまた記事にするということはよほど私は移動することが嫌いなのでしょう。東京という街は、日本地図で見ると狭いように見えます。でも移動するとなるとかなり時間を取られるのです。

私の暮らす多摩地域から都心に出かけるとすると、ドアツードアで1時間かかります。つまり往復で2時間かかるということになります。
ところがこの移動というのが厄介者でして、どこかで用事を済ませるためには必ず「そこに行く」という行為が必要になります。でも「移動」そのものでは価値が生じているわけではないのです。

昔物流企業で働いていた時、上司に口を酸っぱくして言われました。「移動は価値を産まないよ」と。ごもっとも。たとえば人参や玉ねぎを100km運んだからといって、その分美味しさがUPするわけではありません。位置がずれただけの話です。ゆえに、物流企業で言うならば倉庫の中を作業者が移動する動線というのは最短経路でなければなりません。動線が長いと作業時間も長くなり、残業になり、利益が目減りします。

これを生活者一人ひとりの暮らしに置き換えるなら、移動時間は短ければ短いほどOK。移動時間が短いと、その分余暇時間が増えるからです。もちろんドライブのように移動そのものに楽しみを求める場合は除きます。


東京にいるとあまり重要ではない移動が増殖してしまう

私自身東京に暮らしていて、バレエとかコンサートとか、色々な催しがあるので週末は出かけることがあります。確かに人からカネを取ってやっている催しですから水準としてはプロの領域に到達しています。お見事としか言いようがありません。

なのに、後々まで思い出に残るような催しというのは実際にはほとんどありません(個人的経験)。なんだか穴の空いたザルに水を注いでいるような、ずいぶんもったいない時間の使い方です。いやさらにチケット代という名目でお金まで飛んでいってますね。

なぜこうなるかというと、東京に住んでいるとそういう催しが沢山あるのと、行こうと思えば行けてしまう距離なのでつい行ってしまうんですね。よーく考えると行くことが自分の人生にとって真に重要とまでは言えないのに、行ける距離だから行ってしまう。冷静になってみれば、そこまで頻繁に行く必要などどこにもないのです。つまり東京というのは、どこかで線引をしないと無限にそういう「穴の空いたザル」が増え続けて忙しくなり、結果的に充実しているように見えて逆に生活の満足度が下がってしまうんですね。東京は出かける機会が多い分、ひとつひとつの外出はどうしても「薄味」になります。

違う角度から言ってみると、東京という街に住むことで、もしかすると「出かけて忙しくなる」「移動で時間を持っていかれてQOLが下がる」という自滅パターンが体の中に組み込まれてしまうのかもしれません。客観的に見れば資本主義に踊らされているだけなのに、なぜか「出かける」「忙しくする」ことが美徳になってしまうのでしょうか。

ちなみに都心に行くと単に喫茶店に入るだけでも行列しなければならないこともザラにあります。休息の場所を探し求めてますます消耗するなんて、ブラックジョークでしょうか・・・。ワイ、もう岡山帰ろうかな。