「三顧の礼」は三国志に出てくるお話です。劉備が孔明を登用するにあたり、彼の許を三度訪問したことにちなんでこの言葉が生まれています。すでに広く名が知られていた劉備が、わざわざ孔明を訪ねていったものの、一度目は会うことができませんでした。二度目も同じでした。
普通の人なら一度断られたら諦めるでしょうし、ある程度熱意のある人でも二回目なら「やっぱりだめなんだ」とさすがに悟るはず。それでも劉備は諦めず、もう一度孔明を訪問します。このとき劉備は52歳で孔明は27歳。年齢的にいうと、劉備は孔明のおよそ二倍の年齢です。戦場を駆け巡り、死線を越えた経験といい、さらには当時の平均寿命を考慮すると老将とか宿将という言葉がふさわしいでしょう。加えて民衆を統治することの難しさをも知っていた彼は当時の中原にあって屈指の人物。その彼がまだまだ前途洋々たる若者孔明を訪ね、
臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)し、三たび臣を草廬(そうろ)の中に顧み、臣に諮るに当世の事を以てす。是に由りて感激し、遂に先帝に許すに駆馳(くち)を以てす。(「出師の表」より)
劉備はへりくだって三回も貧しい庵に暮らしていた孔明のもとを訪れ、今の世の中何をなすべきかと質問したこと。このような態度に孔明は深く感激し、彼は終生にわたる至誠をもってこれに応えることとなりました。
「三国志」は西暦220年ごろから280年ごろのお話。この「三顧の礼」の逸話が現代にまで語り継がれているということは、よほど人の心を動かす「何か」があるのでしょう。
「三顧の礼」は現代史にも残っているのか
時は飛んで20世紀。冷戦時代のこと、その時ニクソン大統領の補佐官だったキッシンジャーは1971年7月に極秘訪中し、米中の国交正常化に道筋を付けたことで知られています。彼は周恩来と会談して、米中関係の改善、ニクソン大統領の訪中を打診し、同意を取り付けていました。その翌年にはニクソン大統領が訪中。こうして米中双方による事実上の相互承認が行われ、国交回復への道のりが定まりました。
田中角栄もやはり日中国交回復交渉においては自ら中国を訪問しています。周恩来は日中戦争期における日本軍の蛮行について触れましたが、田中角栄は「だから私はこうして北京へやってきた。あなたが東京へ来たのではなく、私がやって来た」と述べたそうです。こうして田中角栄と周恩来は日中共同声明に調印し、日本と中国の国交が正常化しました。「日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する」と日中共同声明には記されています。
中国は日本に戦後補償を求めませんでしたが、日本は台湾と断行することになりました。「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部とする立場を日本が十分理解し尊重する」。
中国では目下の者が上位者を訪問することが習慣として確立しており、その逆はありえないことから、日米のトップが中国を訪れることは、中国側にしてみればかなり気分がよい出来事だったはず。
キッシンジャーといい田中角栄といい、「三顧の礼」が脳裏にあったのかどうかは定かではないものの、受け入れる側の中国にしてみればやはりそうした歴史の積み重ねがあるわけで、相手に礼を尽くそうという方向へ作用したものと考えられます。にしても1700年前の出来事が現代史に作用したと考えると面白い話ではないでしょうか。
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