もはやとうとうここまで来たか、というほど時間にケチなワイ。ヴァイオリンを練習する人なら、この楽器の難しさにいつも腹を立てたり諦めたり泣いたり挫折したり言い訳してサボったりしていることでしょう。そうするうちに、何があってもめげない無駄な継続力が培われることに驚きます。継続力があったところで、下手の横好きであればヴァイオリンという楽器の演奏を通じて誰も幸せにすることができません。ただの自己満足で人生が終わってしまいます。なんてこったい!
ということを覚悟の上で私はヴァイオリンを練習しています。となると時間の確保が日々の生活の至上命題。ノートルダム清心女子大学元学長・渡辺和子さんは「時間の使い方はいのちの使い方です」と学生を諭し、ホリエモンも「時間は命」だと主張しています。
私はこの言葉の源はこれであろうと考えています。
われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費されるならば、最も偉大なことをも完成できるほどに豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。全くそのとおりである。われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。たとえば莫大な王者のごとき財産でも、悪い持ち主の所有に帰したときには、瞬く間に雲散してしまうが、たとえ並の財産でも善い管理者に委ねられれば、使い方によって増加する。それと同じように、われわれの一生も上手に按配する者には、著しく広がるものである。(セネカ『人生の短さについて』(茂手木元蔵訳)より)
古代ローマ時代の哲学者であり、皇帝ネロにより自殺を強いられたというセネカ。彼の『人生の短さについて』は2000年ほど昔の書物でありながらその内容は十分現代でも通用します。
ヴァイオリンを弾く私はセネカのこの言葉にものすごく影響を受けており、とにかく時間に対してケチ。散髪に近所の千円ほどで15分でカットしてくれるお店に月1回行きますが、店の中を覗いて2人以上待っている人がいると、絶対に中に入りません。で、時間をずらしたり別の日に覗いたりして、また2人以上人がいると入りません。これを繰り返して待ち時間がほぼゼロだというときにしか利用しません。
一人あたりの作業時間が15分として、2人なら30分。3人なら45分。カット椅子が3台あり、これが全て埋まっていて、なお2名待ち状態の客がいるとすると、個人的経験から察するに15分は待つことになるはず。3人の待ちなら20分は待つでしょう。
でも15分あれば「G線上のアリア」なら3回は通しで弾けますし、そもそも練習だから通す必要はなく、難所を20回くらい繰り返せるはず。たかが15分といっても、ヴァイオリンの練習で15分あれば何ができるか、という観点からこの15分を評価すると十分価値があると言えます。ランニングなら3km走れます。にも関わらず、「次の客早く終われよ。待ち時間なげーな」と思いながら理髪店でずっと待機して15分を過ごすのは愚の骨頂。
この記事を書いている今日もやはりお店を覗いたら4人も待っていた(こういう店に来るのは男と相場が決まっています)のですが、私は躊躇せずUターンして帰りました。我ながらかなりイカれた奴だと思いますが、失われた時間は二度と戻りません。「待つ」という何の価値も生み出さないことに時間を費やしていることに無自覚な人間になりたくないんですよ、私は・・・。
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はい。書き散らしています。