2023年12月23日(土)、東京文化会館小ホールで開催された和波孝禧さんの「クリスマス・バッハシリーズ 無伴奏ヴァイオリン作品全曲」演奏会。今回はシリーズ30回を記念して無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ全曲が演奏されました。16時に開始し、終演は19時30分を回っていた長丁場のコンサートです。聴く方も大変ながら、なにより演奏する方もものすごく大変。私もバッハの「無伴奏」は1、2曲だけ弾けますが、1曲だけでもなかなか辛いもの。弾けたからといって、その演奏で人が感動するわけではありません。無伴奏曲ではそのことを有伴奏曲以上に実感します。辛い・・・。

その苦行に80歳が近くなってからチャレンジしようとする和波孝禧さん、並々ならぬ意欲がうかがわれるではありませんか。会場で配布されていたプログラムには、これまでの本シリーズのあゆみが掲載されていました。これによると、このシリーズの第1回は1991年。たしか湾岸戦争の年でもあり、雲仙普賢岳が噴火した年でした。ものすごく遠い時代に思えてしまいます。このプログラムの第1回、第2回は無伴奏。その後イザイやコレルリ、ビーバーやヒンデミット、ヴィヴァルディを挟みながら2011年に無伴奏ソナタとパルティータ全曲にトライ。そしてまた2023年にもふたたび全曲に挑みました。その結果は・・・。


音楽の感動とテクニックは別物である

明らかな事実として、今の若手ヴァイオリン奏者のほうが技術的には上です。指がどれだけ回るかとか、細かい音をどれだけきらびやかに響かせるかとか、弓使いがどれだけ素早いかとか、そういうスポーツ技術に属することであれば、戦後の音楽教育は飛躍的な進歩を見せていますから後になって生まれた人のほうが有利です(スポーツであれば、例えばフィギュアスケートなどでもこれは顕著ですね)。

が、音楽はスポーツのように「所定の距離をどれだけ速く走れるか」「球をどれだけ遠くまで投げられるか」ということを競うものではなく、あくまでも技術は音楽的表現に寄与するものでなければなりません。その意味で、〇〇国際コンクール1位などの評判で売り出しているようなヴァイオリニストのほうが実は上手いだけでべつに感動しない、ということは往々にして起こります。

本日の和波孝禧さんの演奏も、きらびやかさとは程遠いながらも堅実に一つ一つの音を積み重ねようとする篤実なもの。バッハの音楽は「刹那的な娯楽のためのものではない」(プログラムより)のであり、たとえばフーガなど繰り返されるテーマを拾っていくだけでもくたびれます。が、そのテーマをずっと追いかけるうちに厳粛な気分になり、作曲家がこの形式で何を表現しようとしていたのかがぼんやりと心のなかに浮かび上がってきます。不思議なもので、ただ綺麗で上手なだけのヴァイオリニストですとそういう気持ちにならないのです。上手いほうが安心して聴いていられますし、音楽に集中できるはずなのですが、なぜか実際にはそうは行きません。

和波孝禧さんは、終演後にマイクを片手に自分の師であるシャンドール・ヴェーグ氏や江藤俊哉氏の名を挙げ、彼らは皆バッハを大切にしていたことを話されました。おそらく、師匠であった江藤俊哉氏の、若き日のとあるコンクールで思うような成果を獲得できなかった際に弟子を慰めようとした言葉がこの日の和波孝禧さんのバッハを最も的確に表現していると思います。

(1位を獲得したヴァイオリニストと比べると)音楽が伝わってこない。じっくり聞けばよさは分かるが、聞いた瞬間に引き込まれるような説得力には乏しい。要するにコンクール向きの演奏ではない、ということだろう。一概にコンクール向きの演奏がよいとも思えないが、君の場合もっと技術、特に右手のボーイングを改善し、人格にも磨きをかけて説得力のある演奏を目指して欲しい。

(和波孝禧『音楽からの贈り物』より)
たしかにテクニックがあるに越したことはないですが、ことバッハとなれば話はやや違ってきます。バッハの無伴奏曲のように音楽の一つの極北である作品の場合は上手ければいい、綺麗に響けば、拍手が大きければいいというものではなく、技術あくまでもはメッセージを伝達するための手段です。そして、「メッセージ」は演奏家その人の楽譜の読みの深さであり、自らの演奏家としての歩みの長さであり、つまりは「バッハとともにあるヴァイオリニスト=私とは?」という問いへの答えであるべきでしょう。

その点で、和波孝禧さんのバッハは技術の衰えまたは不備を指摘するのは野暮としか言いようがありません。長いキャリアを経るなかでたどり着いた今現在のバッハが本日の第30回を迎えたバッハシリーズでした。この1年の終わりに、かくも充実したバッハと巡り会えたことを心から嬉しく思います。