世の中には出来杉君のように何でもできてしまう人がいます。歴史上の人物ならダ・ヴィンチやゲーテ、フランクリンなどがそうですね。芸術家として活躍したり政治家になったり科学者になったりと大忙し。凡人なら一生かかってもできないような大発見をしたり、仰ぎ見るような芸術作品を遺したり、そんな有能な人が私と同じ「ヒト」という生き物だとは思えません!

作曲家・武満徹は様々な名曲を作った一方で、評論家としても健筆をふるっていました。図書館に行けばおそらく著作集の一つや二つ、配架されていることでしょう。

そこまで行かなくても、たとえばヴァイオリニストの千住真理子さんは著作をいくつも出しています。どうやら本のいくつかはガラケーのメモ帳機能で書いたようです。パソコンが苦手なのか、仕事柄家にいないことが多いのか(モバイルPCを持ち歩くという手もあるが)、携帯電話で思いついたことをその場で書きとめていくスタイルだったのかもしれません。

やはりヴァイオリニストのヒラリー・ハーンはCDが出るたびに、なぜ今この曲をレコーディングしたのかを自分の言葉でライナーノーツに綴っています。例えばヒグドンとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をカップリングしたCDでは、作曲家ジェニファー・ヒグドンとの自分が16歳だったころからの関わりから始まり、ソナタか協奏曲の新作を一緒にやろうという話が出たもののお互い多忙を極めていたため歳月ばかりが経過してしまったこと、その後とうとうヒグドンがヴァイオリン協奏曲を作曲し、初演をハーンが担うことになったことなどが書かれています。

チャイコフスキーの有名な協奏曲については、
カーティス音楽院の幼い学生だったとき、私はヤッシャ・ブロツキー先生からこの作品を教わりました。はじめて公開の席で演奏したのは、13歳のとき。フィラデルフィアのカーティス・ホールで開かれた学生リサイタルで、ピアノの伴奏に合わせて弾いたのです。そしてオーケストラと何度か演奏したあと、10代のなかばにチャイコフスキーから離れ、自分ではその時期は1、2年だろうと思っていました。

ところが、なりゆきでチャイコフスキーから10年も遠ざかることになったのです。その間、私は大勢のすぐれた演奏家たちと共演し、録音し、世界を旅し、手あたりしだいに沢山の作品を勉強しました。そしてようやくチャイコフスキーに戻ったとき、私は作品に対する自分の見方が大きく変わったことに驚きました。
このように曲との関わりや自分がどう演奏してきたか(しない時期があったか)を語り、使用する楽譜の版がチャイコフスキーのオリジナル版であって通常用いられるアウアー版ではない理由や、ヒグドンとチャイコフスキーを組み合わせた理由などが自分の言葉で説明されています。

さすがヒラリー・ハーン、短いながらも経緯が簡潔にまとまっており、借り物ではない言葉でこの曲にかける意気込みを丁寧に伝えています。好感が持てますね。

が、世の中に流通しているクラシックのCDでは、なぜ今この曲なのか、注目してほしいポイントはどこなのかなどが一切自分の言葉で語られておらず、ライナーノーツは赤の他人である音楽評論家の解説ばかりが掲載されています。お金を払って買ってきた商品である以上、短文でもいいから何らかの説明が付属していてしかるべきでしょう。もしかしたら『音楽の友』の◯月号の俺のインタビューを読んでくれってことでしょうか。でもそんなの読むわけないですよね。

ヒラリー・ハーンができることを、他のヴァイオリニストやピアニスト、指揮者ができないなんてことはないはずです。だって、たった1、2ページの文章量でしかないわけですから、文字数にすれば原稿用紙せいぜい3枚程度。子供の読書感想文くらいの分量です。それくらい、いい年した大人が書けないはずはありません。まさか文章を書くのが苦手? いやいや、それなら要点を箇条書きにしたものをマネジメント会社なりCD制作会社なりに提出すれば社員さんなり外注ライターさんなりがきちんとした文章に整えてくれるはず。

一体、どうしてほとんどの演奏家は自分の言葉で語ろうとしないのか・・・。音楽家だから音楽で表現されたことがすべてだ? いや、それならヒラリー・ハーンは音楽家じゃないってことになるんですけど・・・。