身も蓋もない話ながら、世の中には「運」というものがあります。就職活動で落ちた。意気消沈していたが運良く別の会社に内定をもらえた。第一志望だった会社はその後不祥事で見る影もなくなってしまった。JR中央線が遅れたせいで、乗るはずだった飛行機に乗れなかった。が、その飛行機は墜落した・・・。
私の先輩は、大学4年の春に内定をゲット。
「君、知ってるかい。僕の会社はね、トヨタの次に日本で2番めに大きい会社なんだよ」
「へえ先輩すごいですね。何ていう会社なんですか?」
「東京電力! どうせ働くなら、ビッグなほうがいいだろう!?」
(私と先輩の会話をそのまま書きました)
卒業後、この先輩がどうなったのかは知りません。ただ東京電力は東日本大震災で(以下略)。
この先輩は他にも東京ガスなどを受けていましたが、もしそっちから内定をもらっていたらきっと別の未来が待っていたことでしょう。
ところで、名指揮者と呼ばれるためにはやはり生まれた時代という、「運」としかいいようがない要素も関わっているようです。ポストを得るために指揮者が奔走するのもやはり就職活動ですね。
ベルリン・フィルハーモニーの終身常任指揮者となったカラヤン
ヘルベルト・フォン・カラヤンといえば『帝王』と呼ばれた指揮者。ベルリン・フィルハーモニーだけでなくウィーン・フィルハーモニー、ミラノ・スカラ座、パリ管弦楽団といったオーケストラも一時的にとはいえ我が物とし、お前は藤原道長かと思うほどの権勢を手中におさめました。
1954年11月20日、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが他界するとただちに彼が占めていた地位を誰が引き継ぐのかということで楽壇の話題はもちきりとなりました。
ベルリン・フィルハーモニーとウィーン・フィルハーモニーがドイツとオーストリアのクラシック音楽に深く根を下ろしている以上、この伝統の中で生まれ育った人間でなければ首席指揮者となることは考えられない。当時国内にいた指揮者の中で、ハンス・クナッパーツブッシュは、常任指揮者になることには関心を示さなかった。エーリヒ・クライバーはベルリンのソビエト地区で従事していた仕事のために敬遠され、ハンブルク・フィルハーモニーの指揮者でバイロイトの首席指揮者ヨーゼフ・カイルベルトは若すぎたためかもしれないが真剣に考慮されることはなかった。(ロジャー・ヴォーン『カラヤン 帝王の光と影』堀内静子訳 より)
この他にもセルジュ・チェリビダッケも候補者の1人に上がっていたものの、「フルトヴェングラーはよい時に死んだ、耳が聞こえなくなっていたのだから」という余計な一言を言ってしまったせいで印象が悪くなり、候補者レースから脱落しました。フルトヴェングラーは晩年聴力が悪化していたのは事実であり、オーケストラとのリハーサルで補聴器を使おうとしていたものの性能が不十分で期待したほどの効果が得られず、彼は落胆したと伝えられています。
結局カラヤンがベルリン・フィルハーモニーとの契約を交わすことになりました。この時彼は47歳。当時の日本のサラリーマンであればもうすぐ定年を意識しようかという年齢ですから、ずいぶん辛抱強く待っていたことになります。
しかし、もしフルトヴェングラーの死去のタイミングがずれていたり、カイルベルトがもっと早く生まれていたりした場合は、違った方向に物事が進んでいた可能性は十分あります。
そう考えると、カラヤンが望んでいた地位を獲得できたのも実力の他に「タイミング」という自分の努力ではどうにもならない要素が作用していたことであり、就職活動をする学生が、たまたまある年に生まれたというだけでバブル崩壊やリーマン・ショックなどに翻弄されるのと似たようなものかもしれません。名指揮者になるためには生まれた時代も大事なのでしょうか。
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