楽器を奏でるというのはとても難しいことです。とくに私が日々取り組んでいるヴァイオリンなんて地獄の難しさ。これに比べれば簿記とかTOEICなんてもう屁の河童レベルでしょう。何しろ1日何時間も音階を練習して練習して練習して、それでもプロの演奏ですら「あれ、なんか音程がおかしいぞ」という瞬間があります。指板を押さえるポイントが1mm違っただけでもまるで音程が異なるなんて、フレットがあるギターと比べると理不尽すぎる仕打ちです。
あまりの難しさに「先生、こんな調子じゃ私はソナタと協奏曲を1,2曲綺麗に弾けるようになったらそれで自分の人生終わりますね」と言ってみたら「そうです。ヴァイオリンとはそういう楽器なんです。誰がやってもそれくらい時間がかかるんです」と真顔で言われました。ということは定年退職してからヴァイオリンを始めようとした人は、そういうアイデアが閃いた瞬間にマイナス60年くらい手遅れだということになります。
でも人間が演奏すると不正確でもAIに演奏させてみたらどうでしょうか。AIというか、要するにプログラミングされた演奏をコンピュータが演奏してみたり、即興で次々にいろんなメロディを繰り出したり、「もしハイフェッツが現代に蘇って21世紀に作曲されたヴァイオリン作品を弾いてみたらどうなるか」という演奏をしてみたり・・・。何やら凄そうなアイデアですが、ファンが付くのでしょうか?
AIの演奏にファンは付くのか
私は、これまで色々なコンサート(ライブ)に足を運んでみた経験から考えて、AIのそんな演奏にファンはつかないだろうと考えています。
過去にプロオーケストラやヴァイオリニスト、ピアニストの演奏会だけでなく、様々なロックバンドやアイドルのライブにも行きました。そうこうするうちに、私はお客さんの反応には2種類あることに気が付きました。
一つは、〇〇オーケストラの管楽器がすごく上手いとか、このヴァイオリニストの技巧が冴えわたっているとか、アンサンブルがまとまっていて見事だとか、弦楽器群の音程がぴたりと揃っていて素晴らしいとか、「機能」面での充実を称賛するもの。
もう一つは、〇〇という指揮者や、〇〇というアイドルが舞台で何かを披露すること、その場に自分が立ち会うことという「意味」を求めるもの。
二つの立場の声をよくよく聞いてみると、前者は「ただ上手いから聴いてみた」に集約され、つまり「他より秀でているからこれを選んだ」という、いわば「強いものの味方」でしかないのです。ただのスネ夫ですね。この場合、もっと強いものが現れたらそちらへすぐに流れて行ってしまうことは言うまでもないでしょう。
後者は、表現者が何かをする、そこに自分の人生の軌跡を重ね合わせることに価値を見出そうとするものであり、技術の優劣を超えたものがあります。たとえ技術面では劣っていたとしても、にも関わらず、いやだからこそ自分が支えようとするという積極的な意志を感じることができます。
過去記事
において、渡辺麻友さんが卒業コンサートで1曲めに歌った「初日」は声が涙で詰まって歌えなくなったり、それでも平常心を保とうとして声を出そうとする姿を見た私は、音楽の感動はそこに表現者の「メッセージ」が込められているか否かの一点にかかるものであると考え、たとえ彼女の歌は音楽的には不備だらけでも感動を誘う理由はそこにあると論じたことがあります。
ちなみに渡辺麻友さんはひと頃アイドルサイボーグと呼ばれていました。ロボットは泣かないはずでした。感情もないはずでした。しかし彼女はそうではありませんでした。やはり人間だったのです。もうこの場は二度とない、もう次はないと悟った彼女の胸には様々な感情が渦巻いたことでしょうし、その姿を見た私たちもまた彼女を支えようとして歓声を上げたのでした。
ここまで書くけばもういいでしょう。AIの音楽は「すごいね」「うまいね」と称賛されることはあっても、渡辺麻友さんが抱えていたファンの熱量を超えることはありません。卒業コンサートの現場に立ち会った1人として、断言します。
コメント