世の中には人間がうじゃうじゃいます。休日に新宿のアルタ前あたりをうろつこうものなら、自分はなんでこんなところに来てしまったのだろうと後悔すること間違いなし。私は人混みが嫌い・・・というか人が嫌いなので一刻も早くこの混雑から抜け出そうとしてイライラします。で、自分の好きなペースで歩くことができないのでなおさらイライラにを募らせるという悪循環に。

「人がゴミのようだ!」

そう叫んでみたくもなります。なにしろ東京だけで1400万人の人間がいます。日本人だけで1億2千万。地球上の人口はおよそ80億。これだけ多いと、自分と気が合う人もいれば気が合わない人も出てきます。当たり前の話ですね。だから、良かれと思ってやったことに対して心から感謝されたり、逆に「なんでそんなことしやがるんだ!」と激怒されることだってあるでしょう。たとえば電車で席を譲ったのに「ワイはそんなに年寄りじゃないんや!」と怒られたとか。

自分の行為に対して相手がどういうリアクションをするかはわかりませんが、自分が期待した結果が起こらなかったからといってがっかりする必要はないでしょう。なにしろ地球はあなたを中心に回っているわけではないのですから。他人が思うように動かなかったからといってもそれが当たり前。他人はあくまでも他人なのですから、過剰な期待は禁物です。


他人に期待しない名言とは

マルクス・アウレリウス(121-180)はローマ皇帝であり哲人としても知られていました。彼が書き残した『自省録』には、自らの瞑想のためにストイックな言葉の数々が記されていました。この書物をひもとくと、まさに他人に余計な期待を抱かないことの要諦が述べられています。

人に善くしてやったとき、それ以上のなにを君は望むのか。それは眼が見るからといって報いを要求したり、足が歩くからといってこれを要求するのと少しも変りない。なぜならば、あたかもこれらのものが各々その特別の任務のために創られ、その固有の構成にしたがってこれを果し、そのことによって自己の本分を全うするように、人間も親切をするように生まれついているのであるから、なにか親切なことをしたときや、その他公益のために人と協力した場合には、彼の創られた目的を果したのであり、自己の本分を全うしたのである。

(マルクス・アウレリウス『自省録』より)
「人に善くしてやったとき、それ以上のなにを君は望むのか」。つまり善行を行ったその時点でその行いは役割を終えたのであって、そのあと何が起こるかについてマルクス・アウレリウスは何一つ論じていません。つまりその先は取るに足りないことであり、自分ではどうしようもない出来事ですから考慮していないということです。

『自省録』にはそのように、自己の善を追求する道は万人に対して開かれているとしてこれを尊ぶ一方、自らの力でコントロール不可能な外的な事柄については「それとどう向き合うかは自分の問題だ」という立場が一貫しています。

このメリットはなにか。言うまでもなく他人の一挙手一投足や評価つまり他人軸ではなく、自分軸で生きることができるようになることです。言い換えれば周りのノイズに左右されない沈思黙考の人生が手に入るということ。マルクス・アウレリウスの人生がおそらくそうだったのかもしれません。あるいはそういう人生を獲得しようとして、それがなかなか思うように進まないからこそ自らを励ますためにストイックな言葉を並べていた可能性もあります。

いずれにせよ、ローマ時代に書かれた本が歴史の波間に没することなく今なお世界中の人に読みつがれていることそのものが『自省録』が名著であることの証でしょう。ということはむやみに他人に期待しないということが自分の気持ちをラクにしてくれる近道であると考えられます。というわけで私は今日も他人に何一つ期待しないのです・・・。