諏訪内晶子さんといえばチャイコフスキー国際コンクールのヴァイオリン部門で1位に輝いたこと、その後しばらく演奏活動を続けていたものの表現の幅を広げるために米国に留学し、数年の後にキャリアを再始動させたエピソードが有名でしょう。
私が彼女の演奏を初めて生で聴いたのはもう20年ほど前になりますが、芯がある清冽な音だったことをはっきりと覚えています。これはいわゆるガラ・コンサートのようなもので、たしか日本音楽財団からストラディヴァリウスを貸与されている演奏者たちがそれぞれ小品などを弾くという催し。その中でも諏訪内さんの音は他のヴァイオリニストと比べて一段上を行っていると感じました。
その後何度か演奏会に足を運んだことがありますが、その時の印象を上回ることはありませんでした。「ビールは一杯めが一番美味しい」現象でしょうか。私がこれを言うのは変な話ですが、うまいことはうまいのです。ただ日本の高級車を見た時、「精巧に作ってあるのはわかる。でもなんだかジャガーやロールスロイスと比べると真面目な感じはするけど疲れる」と思ってしまうのと似たような感じといえば少しは伝わるでしょうか。
2023年9月24日(日)、所沢ミューズで行われた諏訪内さんのブラームス・リサイタル。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ3曲をプログラムに載せていました。そこで耳にしたものは・・・。
温かみあるブラームス『ヴァイオリン・ソナタ第1番』
少し前からストラディヴァリウス「ドルフィン」からグァルネリ・デル・ジェスの「チャールズ・リード」に楽器を変えた諏訪内さん。異なった表現力を備えているヴァイオリンを手にしたことがなにか自分の音楽に影響を与えたのでしょうか。ただヴァイオリンはあくまでも音楽を表現するための「道具」であって、奏でるのは自分です。自分の音楽性を楽器を通して表現しなければなりません。
ブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』。冒頭のメロディからしてまずゆったりとした大きな流れに身を任せるような世界が広がっていました。どう表現したらいいのでしょうか。赤子を慈しむ母親のような眼差しとでも言えば良いのでしょうか。少なくとも「ソファに座ってくつろぐ紳士」ではないと思います。
ヴァイオリンというのは理不尽いや不思議なもので、指板を押さえる指の位置をわずかに変えるだけで音程がガラリと変わってしまいます。初心者が挫折するのはそれで正しい音程を取ることができず、何が正解なのか、どこがどう違っているのかまったく分からないからですが、この不安定さはプロの奏者にとっては音程を都度微妙に変えることで雰囲気に変化をつけることができるという長所に転じます。さらにはテンポや強弱を工夫することで「同じ楽譜を使っているのに印象が違う」ということが成立します。
もともとこの曲は、クララ・シューマンの息子でありヴァイオリンを弾いていた息子フェリックスが結核で死んでしまったことが成立の背景の一つとなっています。第2楽章で葬送行進曲のようなリズムが登場するのもきっとそれが理由なのでしょう。では本日の諏訪内さんの演奏がそうした暗いものを連想させるかというとそうでもありませんでした。クララはこの曲を「天国へ持って行きたい」と思うほど愛したというエピソードが知られているように、最後は悲しみや寂しさといった人間の様々な感情を包み込んで温かく静かに閉じられます。そのエンディングへ向かうことを念頭に、最後はすべてを受け入れるかのような包容力のある演奏でした。
音楽を聴いたことの感想を文章として連ねるのはとても難しいことですが、かつて聴いた諏訪内さんの演奏と、今現在の演奏ではずいぶん様変わりしており、表現の道に終わりはないのだということを痛感しました。
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