最近では評価経済という言葉を耳にするようになりました。従来は、どれだけお金を持っているかが豊かさの尺度でした。たとえばあいつは都心に豪邸を持っていて、移動はいつもベンツ。地方に行くときは車じゃなくてヘリコプター。夏になるとモナコのカジノで大はしゃぎ。こう書くとこの人はものすごく大金持ちに聞こえますね。
しかしインターネットが爆発的に普及し、その過程でSNSが普及し人と人の繋がりが薄く広くなっていくと、どれだけ「友だち」の数とかフォロワー数とか「いいね!」の数とか閲覧回数とかが、お金ではなくその人の評価基準となる場合もあります。こうして構築された評価が、その人の信頼の裏付けとなり、たとえば賃貸物件を借りやすくなったり、ライドシェアの提供者となったときにお客さんが安心してサービスを利用してくれたりする、というわけです。
辞書的には「評価経済社会とは、貨幣と商品を交換し合う貨幣経済社会に対して、評価と影響を交換しあう経済形態により現代社会を説明しようとする考え方である」とまとめられています。
この評価というのは往々にしてインターネットがあることが前提になっており、ややもすればスマホへの依存を強める可能性があるでしょう。
インターネット上に存在する刺激物として有名なのはゲーム、ギャンブルそしてポルノ。しかしSNSもそれ以上に危険だったりします。何時間本を読んでも依存症になることはありません。TVを毎日見ていると、いつの間にか禁断症状が・・・、ということもありません。つまり依存症になるほどのインパクトを人間に与える力がないことを示唆します。
しかしスマホとSNSという組み合わせが厄介です。ニューヨーク大学スターン経営大学院准教授、アダム・アルター氏はニューヨーク・タイムズのインタビューで次のように発言しています。
――新しい電子機器が行動依存症を加速させていると主張している。
周りの人々の様子を見てみればわかるはずだ。私たちの調査では、成人の60%が就寝時にも携帯電話をそばに置いていると答えた。別の調査では、回答者の半数が夜間にメールをチェックすると答えた。
さらに、新しいガジェットは中毒性のあるものを持ち運ぶのにうってつけだ。ゲームやソーシャルメディアは、以前は自宅のコンピュータに閉じ込められていたが、今ではどこにでも持っていける。
私たちは頻繁にソーシャルメディアをチェックしており、それにより日々の仕事や生活が阻害されている。どこを歩いていても、誰と話していても、インスタグラムの写真にいくつ「いいね!」がつくかに夢中になっている。(東洋経済ONLINE「スマホやSNSに「依存」するのは理由があった 知られざる「行動依存症」の実態」より)
「どこを歩いていても、誰と話していても、インスタグラムの写真にいくつ「いいね!」がつくかに夢中になっている」。このように、自分の言動が他者からどれくらい評価を受けるかものすごく気になっており、あわよくば1つでも多くの「いいね!」を得ようと躍起になっている姿がまぶたに浮かびます。ちなみに私のTwitterは何を投稿してもほとんど誰も無反応なのでほんとうに「つぶやき」に終始しています。だから評価はゼロ! やったぜ!!
SNSで高評価を増やそうとし、これでスマホ依存症になってしまうのはどうしてだろう? と考えたときに、ある言葉を思い出しました。
「一切れのパンではなく、多くの人は愛に、小さなほほえみに飢えているのです」
マザー・テレサの言葉です。彼女は「愛の反対は憎しみではない。無関心だ」とも述べています。もう長くは生きられないとわかっている病人に限りある医療資源を投入し、人間としての尊厳を最後まで守り抜こうとした彼女。彼女に看取られながら亡くなって行く人は、その時始めて人として生まれた喜びを実感し旅立っていったと聞きます。
この言葉に響き合うのは、遠藤周作氏が『キリストの生涯』という本において、イエスとは何者であったのかを端的に表現した部分です。
人間がもし現代人のように、孤独を弄(もてあそ)ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処(どこ)かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。
だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ず、そのような存在を探し続ける。
このように、人は誰しも自分のそばに佇んでいてくれる人を探し求めているものであり、これはイエスが会おうとしたのは罪人や病人など見棄てられた立場の人であったことと符号します。そのようなキリスト教精神の精髄をマザー・テレサは受け継いだのでしょう。
しかし、もしそれが人間というものの本質であるとするなら(キリスト教が結局歴史の重みに耐えて世界宗教たりえているのですからきっとそうなのでしょう)、SNSの評価が気になって気になって仕方なくなり、ついには依存症に陥っていくというのは悪い意味で人間の証明でもあります。その点、評価経済とは、他人から見て自分はどうなのかということが常に問われている(そしてその結果はリアルタイムで数値化されている)という社会システムであるとも言えます。2023年現在、社会はそうした評価経済の入口に立っているのであり、どのように向き合っていくのか、まだまだ私たちの足並みはそろっていません・・・。
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