このブログは「友だちいない研究所」と言います。題名から分かるように管理人=私には友だちがいません。そのほうが私にとっては好都合なのです。つまりそういう性格なのです。

したがって人と話をすることも好きではなく、携帯電話が鳴ろうものなら家族以外は電話に出ず「090-・・・」とかいう番号をあとでGoogle検索してチェック(当然コールバックしない)。

職場でも2020年3月以降、昼食は同僚とはまったくしなくなりました。その結果、むしろ快適になりました。いかに人と話をすることで貴重な昼休みという時間を失っていたか、またそのことに無自覚であったかを思い知らされました。

仕事中も業務の話を同僚と少しするくらいで、「完成するまで黙ってろ」というのがモットー。逆に話しかけられるのが大変苦痛に感じます。今の担当業務は(私は文系なのですが)やけに細かい計算を何回も繰り返さなければならないもの。給与とか所得税とか、人件費のシミュレーションとか、そういうものを扱っています。当然ミスると「ワイの休日出勤手当が出とらんやんけ」とかいうことになります。したがって集中して黙々と計算するのが仕事をするうえでのベストスタイルとなります。

にもかかわらず、いるのです。集中しなければならないときに話しかけてくる人が・・・。

集中しなければならないときに話しかけてくるとかいう損失

はっきり言いましょう。雑談を通じてコミュニケーションを図るのは一見いいことに思えます。が、それは新しいコンテンツやビジネスモデルを生み出すといった類の仕事にとってはプラスです。ただし、プログラミングしたり、「このような前提条件の場合、2025年まで人件費はどれくらいプラスに・マイナスになるか」といったシミュレーションをしたりする場合、ずっと集中力を研ぎ澄ませていなければなりませんから、人との会話=邪魔でしかありません。

ここに、「人が話しかけてくる」という出来事が歴史的損失となった事例をご紹介いたしましょう。
英文学史上に名高い詩人・コールリッジは「クブラ・カーン」という、英語で書かれた詩のなかでも最も美しいと言われる作品を書き始め、50行目あたりにさしかかったとき、訪問者がドアをノックする音を聞きました。彼はペンを置いて席を離れました。ところがこの些細な、ものの数分で終わる用件を処理して再び机に戻ると、先程のイメージが頭の中からすっかり失われていたというのです。かくしてこのコールリッジ最高傑作となるはずだった作品は未完成のままになってしまったのです。

これは、集中しているときにその糸がプツリと切れてしまうとどうなるかを示した古典的例証です。この例を引いて、上智大学教授(当時)・渡部昇一氏は次のように述べています。
われわれはコールリッジのような創造的活動をやっているわけではないが、中断によって手ひどい打撃を受ける点においては同じである。たとえばある人が論文を書こうとして、朝の九時から午後一時まで机に向ったとする。四時間あるわけだが、この間に電話が二度ぐらいかかったとすれば、それによる中断と、また中断されるかも知れないという危惧の念によって、ほとんど仕事は進まないであろう。まったく中断がなかった場合の、おそらく五分の一の仕事しかできないと言ってもよいかもしれない。(中略)しかも質も下っているおそれが多分にあるのだ。

(渡部昇一『知的生活の方法』より)
「話が二度ぐらいかかったとすれば、それによる中断と、また中断されるかも知れないという危惧の念によって、ほとんど仕事は進まないであろう」というのは、私が集中して計算しているときの気分をそのまま物語っています。話しかけられて計算が遮られ、それによってイライラし、「また中断されるかも」という想像をめぐらしてなおさらイライラする。このような私にしてみれば、もはや人との会話が邪魔レベル。アメリカの会社はパーティションで席が区切られていると聞きますが、うらやましくて仕方ありません・・・。

家では一人なので、誰とも喋らずにブログを書けるのがじつは恵まれていることなんだというのを今日のこの記事を書きながら痛感しました。