1990年代中盤から後半にかけてルーズソックスというものが流行したのを覚えていますか。これは、当時の女子高生たちのファッションで、だぼっとしたソックスでした。長さもものによっては1mを超えるものがあり、これを脛のあたりまでずりさげて着用します。必要以上にずり下がらないように「ソックタッチ」という糊のような商品まで発売されました。

・・・なんていう説明はいらないですね。みんな見たことがあるはずです。
私のクラスでもルーズソックスの着用率は90%を超えていたような気がします。いちいち数えたわけではないのであくまでも肌感覚えしかありませんが・・・。

でもいったいどうして、べつにかわいいわけでもかっこいいわけでもないものが全国的に流行したのでしょうか。ロックバンドが流行るのはわかりますよね。かっこいいからです。AKBや乃木坂が流行るのもわかりますよね。かわいいからです。やがて「流行っている」ということそのものがニュースになり、誰もがそれに便乗するようになって全国規模の流行になり、ネタが一巡するとブームが去ってべつのブームがやってくるというのが一つの流れです。

ではルーズソックスが流行ったのはなぜ? 意外な理由を知って愕然となりました。


ルーズソックスが流行った理由

橘玲氏の著作『(日本人)』に衝撃の理由が明かされていました。
この本では、橘氏は社会心理学者の山岸俊男氏の研究結果を紹介しています。これによると、「独裁者ゲーム」という参加者が二人一組になって一人がお金を分配し、もう一人がそれを受け取るというゲームにおいて、普通ならお金を分配する側に回ったほうが有利なのに、日本人の場合は35%もの人が「お金を受け取る側になりたい」と望むのだとか。

山岸氏はこれを「分けることには責任がともなう」ため、リスクを回避したがる性格の人はそのような立場に身を置きたがらず、たとえそれが損であったとしても分けてもらうほうがラクであり、つまり自立性が低く、へりくだる傾向が強く、用心深いと説明しています。さらにそういう人の唾液を調べると、ストレスホルモンの分泌が高いとも明かしています。

すなわち自分で責任をもって行動することにストレスを感じやすく、他人から嫌われることを恐れ、目立ちたがらない。これが日本人の姿です。
(この説は、中野信子氏の『シャーデンフロイデ』に書かれていた東アジア人の特徴とも符号しますし、太田肇氏の『同調圧力の正体』における「ミスに対する批判圧力の強い社会では、有意義なチャレンジを思いついたとしても誰もチャレンジしなくなる」といった文章とも符号します。)

そして橘玲氏はこう述べます。
ルーズソックスが流行ったとき、女子生徒の全員が、スカートの丈を短くしてこの奇妙なソックスをはくことに大人たちは驚いた。だがこれは、彼女たちにとってはファッションの問題ではなかった。みんながルーズソックスのときに、一人だけストレートソックスをはくのは危険なのだ。本人たちが意識しているかどうかは別として、彼女たちは(似合うか似合わないかにかかわらず)”生き残る”ために同じ髪型、同じメイク、同じソックスに揃えようとしたのだ。

(『(日本人)』より)

言い換えると、就職活動のときにみんな同じようなスーツ姿になるのも、2020年~2023年の日本においてみんなマスクを着用するのも、女子高生がルーズソックスをはくのも、結局は閉鎖的な社会において「違うこと」はリスクであり、だからこそ没個性のなかへ埋没せざるをえなかったのでしょう。

私は以前の「マスクは他人の目が9割 ← これ」という記事で次のように書きました。
「他の人がマスクを着けているので自分もそうしたい」というのはまさにリクルートスーツが画一的になってしまうのとほぼ同じであり、「人と違う格好をして減点されるよりはマシ」という、自ら進んで画一性のなかへ埋没しようとする姿であり、嫌悪感しかありません。
この文章を書きながら、私は日本人ではあるものの日本人に対して(というか、日々道路ですれ違ったり、職場で(私の意志とは無関係に)同じ場所と時間を共有している(させられている)自主性ゼロの人間たちに対して)本当に猛烈な嫌悪感を抱いていました。その気持は今も変わりません。しかしどうして自主性がゼロなのか。どうして女子高生がみんなルーズソックスをはいたのか。それは社会生活を送るうえで最も有利だからであり、たとえ平和で安全な日本であっても「人と違う」状態になるとたちまち様々な意味でハイリスクだからなのでした。

ワイ、そんな行動パターンの人嫌いだ。ものすごく。