遠藤周作が『沈黙』とほぼ同じ時期に執筆し、完成させながらも封印された「影に対して」。この作品は2020年に発見され、大きな話題を呼びました。ここには作者の家族関係が色濃く反映されており、一説によると登場人物が存命であり、簡単に特定できてしまうからだと言われています。

この中で「母」として登場するヴァイオリニストのモデルは作者の母であることは疑いのない事実でしょう。一心不乱に練習に励む母の姿は遠藤少年の心に深く刻まれているはずです。1895年に生まれた彼女は東京音楽学校のヴァイオリン科にて学び、師事したのはかの有名なモギレフスキーでした。そこには幸田露伴の妹の安藤幸もいました。

母の秋霜烈日とも言える練習姿勢はこの作品以外でも描かれており、指から血がにじむほどであったとか。運指に問題があったのでしょうか。現代ではとくにスポーツを中心に科学的根拠に基づいた指導が行われるようになり、根性一点張りの練習は忌避されています。他方で、戦前の音楽教育やレッスンの風景はおそらく相当厳しいものだったはずです。なにしろ戦後ですら、江藤俊哉氏のレッスンがものすごく厳しかったと矢部達哉さんや千住真理子さんといった名だたるヴァイオリニストが口を揃えているくらいですから。

それはともあれ「影に対して」で母は息子(実質的に作者ですね)へ向けて「(ヴァイオリニスト仲間の)Sさんはテクニックだけで弾いています」「テクニックだけのことなら、練習で誰でもうまくなれますが、音楽にはもっと高い、もっともっと高い何かがあるのだと母さんはいつも思っているのです」という言葉を残しています。

「テクニックだけの音楽」、これは巷間言われる「齋藤メソッドがあまりに完成されているがゆえに、本来なら指揮者になるべきではない人が指揮者になれてしまった」のようなお話ですがヴァイオリンを弾く人なら身につまされる話です。

千住真理子さんはこう語ります。
ヴァイオリンやピアノといった楽器は、音楽を表現する以前に、技術的に大変努力が必要です。それもプロフェッショナルになろうと思うなら、超人的なレベルにまで技術を持っていく必要があります。なぜなら、無意識に「難なく弾く」ところまで技術レベルを高めて、はじめて技術的なことをいっさい考えずに音楽に全神経を集中させることができるからです。

(『ヴァイオリニスト20の哲学』より)

そのうえで、技術を確立させてあれもこれも弾けるという状態になると、「そもそもその技術で何がやりたいんだろう?」ということになります。

心を失った音楽は、もはや単なる「音の羅列」に過ぎません。そこには何もない、無味乾燥な音の高低があるだけです。
(同書より)
千住真理子さん自身も最年少で日本音楽コンクールで優勝したあと、師・江藤俊哉氏に「これでもう弾けない曲はなくなりました。これからは、あなたの音楽で私を泣かせてください」と諭されたとか。つまり技術は達者だけど、心が入ってないねということです。これこそ「Sさんはテクニックだけで弾いています」「テクニックだけのことなら、練習で誰でもうまくなれますが、音楽にはもっと高い、もっともっと高い何かがあるのだと母さんはいつも思っているのです」ということでしょう。

これは別にヴァイオリンに限った話ではなく、カラヤンのベートーヴェンが「テクニックは素晴らしいのだが」の典型例でしょう。
に書いたとおり、『運命』などはものすごくゴージャスな音です。





何も知らない人にいきなりこれがクラシックだよ、と聴かせたら「スゲー、なんて豪華なサウンドなんだ! なんてセレブなんだ! こんなの毎日聴いたらボク花沢類になれるよ!!」と胸をときめかせたとしても不思議ではないでしょう。
ただ、このサウンドが果たして一時は自殺をすら思い立ったほどの聴覚障害を乗り越え、芸術家としての使命を果たすために作曲の道を諦めなかったベートーヴェンが、悩みを克服して新たな自己を創造した時期を暗示させるものかというと、首をかしげざるをえないのもまた事実です。

率直に言って、カラヤンはベートーヴェンを演奏しているように見えて実際には「オレってこんなにかっこいいんだぜ」という姿を見せつけているだけにしか思えないのです。この音楽は「ベートーヴェン」ではなく、「ベートーヴェンをダシにしたカラヤンの演奏」です。
たしかにこの音は豪華絢爛であるものの、「テクニックだけのことなら、練習で誰でもうまくなれますが、音楽にはもっと高い、もっともっと高い何かがあるのだ」ということを知ってしまった人にとっては物足りなさが残るはず。

・・・なんてこと、ヴァイオリンを日々練習してる人なら当たり前すぎる話なんですけど、そうじゃない人にとって「もっと高い」ものってどうやってイメージするのでしょうか。至言なだけに、かえってそこが引っかかってしまうのでした。