初めて彼のことを知ったのはずいぶん昔のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンでした。
ネマニャ・ラドゥロヴィチが演奏するベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』は、他のどのヴァイオリニストとも違った音を出しており、一切のためらいというものがなくただエンディングまで華麗に突き進むというもの。驚きましたね、まさかベートーヴェンがこんなふうになるなんて。なんていう巧者なんだ!

技巧といえば忘れてはいけないのがハイフェッツ。機械のように正確に、かつ小品で使うような細かいテクニックをさりげなく協奏曲に持ち込み、それでいて技巧のひけらかしにならないという恐ろしさ。ラドゥロヴィチはハイフェッツとは異なった路線でありながらもヴァイオリンらしい色気を演奏に散りばめるというもの。ベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』を聴いたあとは、「でもこれって本当にベートーヴェンなの? ベートーヴェンをダシにして自己語りしてるんじゃないの?」という一抹の違和感がありましたが、「お手本どおり演奏しました。退屈ですって? そう言われましてもこの演奏法はドイツの〇〇先生から伝授されたオーセンティックな奏法でして云々」みたいなベートーヴェンよりもよほど充実感があったのもまた事実です。

というわけでずいぶん久しぶりに聴いたネマニャ・ラドゥロヴィチ。今回はドゥーブル・サンスを引き連れての来日公演。曲目はヴィヴァルディの『四季』、セドラー「日本の春」、リムスキー=コルサコフ『シェヘラザード』(編曲セドラー)。私は2023年4月22日(土)、三鷹市芸術文化センターで聴きました。

まず驚かされるのが『四季』。自由奔放な強弱の付け方、テンポ設定、どこをとっても聴き慣れた『四季』とはまるで違っています。イ・ムジチ合奏団がリリースしたレコードが大ヒットして数十年。今やこの曲は私たちの生活に溶け込み、電話の保留音にすらなるほど。普通の演奏では耳にタコですから納得してもらえないでしょう。その点今回の『四季』はいったいどういう楽譜の読み方をしたらこういう演奏になるんだと驚かされることしきり。

私はこの記事を彼が10年ほど前に録音した同じ『四季』を再生しながら書いています(このCDは品切れらしい。なんとももったいない!)が、なんだか細かいところが微妙に違っていて、おそらくその時その時のインスピレーションに応じて演奏を変えているんだろうということが想像されます。バロック音楽というのはもともとそういうものだったはずですから、「21世紀の一流演奏家の技術をもって、バロック時代のスタイルに寄せてみました」といったところでしょうか。

セドラーの「日本の春」は東日本大震災をきっかけに作曲された作品で、「上を向いて歩こう」のメロディがところどころに顔を出します。たしかに日本らしいサウンドであり、しかも奔放なところもあります。ラドゥロヴィチらしさが現れている佳品でしょうし、他の団体が演奏すると全然違う雰囲気に(良くも悪くも)なってしまうでしょう。

『シェヘラザード』は、原曲もコンサートマスターがヴァイオリンソロを担当しており、このソロが下手だと途端に雰囲気が損なわれてしまいます。アラブの物語を下敷きにしているため、中途半端に真面目な人が演奏すると「これは王女じゃなくてキャリアウーマンだろう」とツッコミを入れたくなることも・・・。

ラドゥロヴィチの演奏は、たしかにベートーヴェンのような作品では上述のごとく「?」な違和感がなきにしもあらず。しかし『シェヘラザード』のような作品では世界観と彼のセンスの相性が良いのか、饒舌なヴァイオリンが作品にピタリとはまります。なんとも妖艶な時間でした。まるで「ソロ・ヴァイオリニストとその手下(失礼!)が繰り広げる千夜一夜物語。乞うは刮目、まずは大海原へ乗り出すシンドバッド!」とでも言いたげな饒舌な演奏は、もしパガニーニが生きていたらこんな感じだったのだろうかと勝手な空想をしてしまうほど。

本日の演奏から察するに、彼はヴァイオリンという楽器を知り抜き、またこの楽器の特性を極限まで追求してみることに飽くなき情熱を傾けているようです。こういうスタイルのヴァイオリニストは唯一無二であり、来日公演があればぜひチケットを購入して後悔はないでしょう。