日本では2023年3月13日以降、マスクの着用は個人の判断に委ねられることになりました。これにより、マスクを「着用する」のは個人の判断であり、「着用しない」のも個人の判断になりました。
私が見た世論調査では、新型コロナウイルス感染症の感染拡大を懸念する人もいればしない人もおり、後者が2年前、そして1年前と比べると増加傾向であることがうかがわれます。ということは当初は「未知のウイルス」であったものが「日本人が一番よく知っているウイルス」となり、社会の一部として扱われつつあるということでしょう。

ならば。マスクを着用していない人も半分・・・、とまでは言わなくても、2割3割くらいはいるかと思えばまったくそんなことはなく、私は東京都民ですがいまだに9割の人が少なくとも屋内ではマスクを着けています。私は50人くらいの人の席がある、わりと大きめの部屋で働いていますが、見た限りマスクをしていないのは私を含めて3人。今日は男の後輩が私の顔を見つめて、「〇〇さんって、イケメンだったんですね」と言われました。男から褒められるのは女性から褒められるよりも難しく、価値があると考えている私にとっては「してやったり」の感深し。

私は、詳しくは過去の記事たとえば「新型コロナウイルスと集団ヒステリー。後から事件を振り返ってみるとどうなるのだろう?」をお読みいただきたいのですが、当初から「これは本当にここまでコストを費やして避けねばならない病なのか? 違うだろう。もし本当に恐ろしい病だとしても、これを抑えるためのコストは具体的に誰がどう負担するのか? まさか有耶無耶にして反省しないつもりか? いや、たぶんそうなるだろう」という考えでした。したがって2019年の生活に戻ること=人と人が表情を見せながらコミュニケーションすることに、いささかのためらいもありません。

それにしても、マスクの着用率と、世論調査から読み取れる日本人の新型コロナウイルス感染症への向き合い方には明らかに乖離があります。しかも、ものすごく。察するに、「マスクは他人の目が9割」なのでしょう。つまり本当は「こんなのやめたいんだけど、外したら自分が少数派になって悪目立ちするし、同僚からどう思われるかよくわからないし、そんなリスキーなこと、やめておこう」と考えているのではないでしょうか。

傍証もあります。2020年8月時点で、同志社大学心理学部・中谷内教授は次のような研究結果を発表しています。

同志社大学心理学部の中谷内一也教授の研究グループは、新型コロナ感染が拡大しつつあった3月下旬に全国調査を実施し、マスク着用がどのような心理的要因と結びついているのかを分析しました。その結果、人々のマスク着用は、他の着用者を見てそれに同調しようとする傾向と強く結びついており、一方、本来の目的であるはずの、自分や他者への感染防止の思いとはごく弱い関連しかないことがわかりました。この春先、人々がマスクを求め国中が大騒ぎとなりましたが、感染予防は微弱な理由でしかなく、主な理由は、他の人がマスクを着けているので自分もそうしたい、という思いだったのです。

(https://www.doshisha.ac.jp/news/2020/0807/news-detail-7768.htmlより)

要するにマスク着用というのは科学とか医学の問題ではなく、他人に同調しなければ不安だという、日本人には「個」がないことの現れだったわけです。それにしても、マスクを着用していれば感染の波をどれくらい押し下げることができたのでしょうか。ミクロで効果があっても社会全体での効果はどれほどのものだったのでしょうか。これは対照試験を行っていない以上、明確に結論を出すことは不可能でしょう。なお、日本における第5波では急激に感染が拡大し、その後バブル崩壊のごとく波が引いていきました。その理由を専門家は誰一人科学的に説明できていません(と、日経新聞には書いてあった)。

私は普段から人前でヴァイオリンを弾いたりエレキギターを弾いたりしているので舞台で自分の顔を見せるということに何の抵抗もなく、人と同じことをしていては差別化できないので表現者としては失格。よって自ら進んでマスクを着用し、人と同じ格好をすることにこそむしろ嫌悪感を抱きます(90年代のほうの『劇場版エヴァンゲリオン』でアスカが「気持ち悪い」というセリフ、あれも他者への拒絶感が現れていて、彼女の気持ちはなんとなくわかります)。

その私にしてみれば、「他の人がマスクを着けているので自分もそうしたい」というのはまさにリクルートスーツが画一的になってしまうのとほぼ同じであり、「人と違う格好をして減点されるよりはマシ」という、自ら進んで画一性のなかへ埋没しようとする姿であり、嫌悪感しかありません(二度目)。

なんだこいつらは、周りと同じ格好をしやがって、「スター・ウォーズ」のストームトルーパーか? 私はそのようにすら思いました。でもちょっと違っていました。
スター・ウォーズは、あらゆる人種と文化からなる反逆児の映画であり、多様性への讃歌である。人間もいれば、イウォークやウーキーもいる。デス・スター爆破の後に続く戦闘場面のレイア姫のように、女性が戦闘を指揮することもある。 

モン・カラマリ族だってそうだ。モン・カラマリ族のアクバー提督は『ジェダイの帰還』で、最後の攻撃の指揮をとった。魚のような頭と「罠だったか」のセリフが印象的なキャラクターだ。

その一方で反乱軍の多様性と対照的なのが、一様に暗色に身を包んだ帝国側である。ストームトルーパーは白で統一されている。女性も黒人もおらず、白い人ばかりだ。いや、そもそも彼らはクローンなのである。

その統一性や画一性は、人間性の欠如や自由の否定を意味している。クローン軍は個人性を奪われ、ただの機械になり、アイデンティティーを持つこともなければ、自分の頭で考えることもない。

この多様性の欠如こそが帝国の特徴であり、ほかのSF作品に登場する独裁者や現実世界の全体主義政府との共通点でもある。

(東洋経済ONLINEジル・ヴェルヴィッシュ氏記事「スター・ウォーズを「差別的」とする人の大誤解 」より)
ストームトルーパーはクローン人間であり、最初から「兵士はかくあるべし」と命令を植え付けられており、そのことに全く疑問を持ちません。だから周りと同じことをしたがる日本人をストームトルーパーとみなすことは不当です。
そうではなくて、私が問題視しているのは「自らの意志で」画一性のなかへ埋没しようとすることなのです。言い換えると、

・自分の意見がない
・やりたいことが特にない
・自分で調べたり、考えたりしない(したくない)
・数の多い方に合わせて安心したい
・行動基準は「他人がやってるかどうか」

であり、「個」がない(二度目)のです。多様性などどこ吹く風・・・。

このブログは「友だちいない研究所」と言います。つまり私には友だちがいません。この記事を書いていると、なぜ自分に友達がいないのかよくわかります。そして、いなくて幸せだと実感しているのもまた事実なのです。にしても日本の大多数の人と異なり(それは日本以外の地球上の人類のほぼ全てと同じだ、ということなのですが)、マスクを着用せず普通に生活する、ただそれだけのことに嬉しさを感じる日が来ようとは。

日本ではこれからも当面「感染拡大防止」を建前としてマスクを着用する人が多数でしょう。私はべつに構いません。そうやって自ら理由をこしらえて、世界の人々から奇異な目で見られ、勝手にガラパゴス化してゆく。まあそいつらが自らの意志でやっていることですから、私の知ったことではありませんね。