20世紀屈指のヴァイオリニストであるアルテュール・グリュミオー。そのレパートリーは幅広く、バロックのソナタからストラヴィンスキーやベルクの協奏曲まで様々な録音が残されています。彼を評するときに枕詞のように用いられるのが「フランコ・ベルギー派の流れを汲む代表的ヴァイオリニスト」と言われており、典型的ともいえるヴァイオリンらしい美しい音には定評がありました。激しい自己主張などがなく、ただただ高貴な空間が広がっていくさまを体験できるのは幸福としか言いようがないでしょう。

もし彼の素晴らしさを体感するとしたら、私ならベートーヴェンとモーツァルトの『ヴァイオリン協奏曲』、そしてブラームスの『ヴァイオリン・ソナタ』を挙げます。この他にもモーツァルトの『ヴァイオリン・ソナタ』も際立って評価が高く、どのCDを買ってきても後悔することはまずないでしょう。

そのグリュミオーは実は大変な心配性であったとも伝えられています。え、あの音楽からは想像もつきませんけどね・・・。


グリュミオーはどんな弦を使っていたのか?

グリュミオーの伴奏を引き受けた名ピアニストであるクララ・ハスキルは、「私の前で弦についてああだこうだ言うのをやめてくれない?」と要望したことがあったとか(オーギュスタン・デュメイ氏談)。

これもデュメイ氏の証言で、「グリュミオーから電話がかかってきたので駆けつけたところ、15種類くらいの弦を前にしてどれにしようかと悩んでいた」そうです。さらには駒を頻繁に調整させていたり、指板を17回取り替えさせて18回目でとうとう断られてしまったそうです。これはすべて心配性という性格に由来するものだとか。

指板を変えたら音も変わるのでしょうか? あまりそういうイメージがありませんが、何しろわずかに腕や指の動かし方が違うだけで珍妙な音になってしまう(それで多くの人が色々言い訳を考えながら挫折していく)のがヴァイオリンですから、まあグリュミオーほどの人がそこまでこだわっていたということであればきっと指板を変えるというのは良い結果が期待できたのでしょう(知らんけど)。

しかし15種類もの弦で悩んでいたというのも引っかかります。いったいどんな弦を使っていたのでしょう? デュメイがグリュミオーのレッスンを受けていたのはおそらく1960年代~1970年代ごろと思われます。そのころ欧州で流通していたヴァイオリンの弦はどんなものがあったのか・・・。少なくとも、4本で2,000円を切り、しかもパッケージ裏に鈴木鎮一による古めかしい推薦の言葉が書かれている、ちょっと怪しい低価格の「タレント」ではないでしょう。

・・・というわけで自宅にある、色んなヴァイオリンの本の目次を調べてみたところ、ヴァイオリンそのものについてはたくさん書かれていても、弦をテーマにした情報が極めて少ないことに気づいて愕然となりました。

唯一、神田侑晃さんの『ヴァイオリンの見方・選び方 応用編』に色んなメーカーの弦の特徴や選び方が書かれており、「弦の性能と値段は関係ない」「ヴァイオリン本体をスムーズに振動させる弦が、そのヴァイオリンに合った弦である」云々と貴重な情報が提示されています。
しかしこの本にも、例えば「100年前のヴァイオリニストはどのような弦を使っていたのか」といったことは書かれていないため、若き日ののクライスラーとかハイフェッツが使っていた弦は何か? といった疑問に答えるものではありません。当然、グリュミオーお気に入りの弦は? についても何一つ分かりません。

というわけでこの記事を書きながら「ヴァイオリン本体については色んな参考文献があるけれど、弓についての本はすごく少ないし、弦について書かれた本なんて全くといっていいほどない」ことに思い当たりました。これ、音楽大学の研究者とかが研究テーマにしないでしょうかね。