世の中にはステレオタイプという概念がありまして、日本人なら真面目だとかメガネをかけているとか、イギリスは食事がまずいとか、アメリカ人なら楽天的で陽気で社交的だとかポジティブだとか、そんなイメージでその国の人を判断してしまいがちです。

でも実際には日本人とかアメリカ人という人がいるわけじゃなくて、A山B太郎とかJohn Doneといった個人がいるだけなんですけどね。

ハーバード大学の学生はどうでしょうか。頭がいいとか、どうせ学力じゃなくて親のコネで入学したんでしょとか、勉強しまくっているとか、いろいろなことに取り組むアクティブな奴なんだろうとか、漠然とそういうイメージを持っているのではないでしょうか。

しかしそういう思い込みとは裏腹にけっこう孤独を抱えがち一面もあるのかも・・・?


ハーバード大生、メンタルカウンセラーの世話になりがち


ハーバード大学とジュリアード音楽大学を首席で卒業し、現在はヴァイオリニストとして、また会社経営者としても活躍している廣津留すみれさんの著作『ハーバード、ジュリアードを首席卒業した私が観てきた新・世界の常識』にはハーバード大学の学生の様子が書かれています。

彼女のハーバード大学時代の友人には、野心的で負けず嫌いでせっかちな性格の持ち主が多かったとか。その個人的経験の範囲内では、学生たちはおのずから自分中心の行動パターンとなり、忙しい中であえて自分の時間を割いて他人に耳を傾けようという姿勢は乏しくなる傾向があったようです。結果、負けず嫌いという性格が災いして悩みとか本音を話せる友人がものすごく限定されてしまうのだとか。

そうなると、成績は優秀で社交的、レセプションで成功した卒業生と人脈をつくり・・・、という人が逆にメンタルカウンセラーのお世話になるということになるのでした。
たしかに「社交的」であり「人脈」がいっぱいあるように見えて、それは実は赤の他人との表面的なつながりであって、「お互いにとってメリットがあるから」関係が継続しているにすぎず、本来の意味での利害を超えた友情(本当は大学時代に作るべき人間はそっちなんですけどね)が形成されていないだなんて、「お前ほんとに陽キャなんか」とツッコミを入れたくもなります。

そういう人間関係は、自分がメリットを提供できなくなると「最近忙しいんだ、ごめんね」などと言って簡単に切り捨てられるのは目に見えていますし、自分だって「こいつ役に立たないな」と感じたら同じようなことを言ってシャットアウトしているはずです。

こんなことを繰り返していると、「逆にメンタルカウンセラーのお世話になる」のは当然とも言えるでしょう。次から次へと色んなことに手を出して、自分を省みる暇がない様子が伺えますが、その生活リズムの中にたとえばシェイクスピアなり夏目漱石なりをゆっくりと読みすすめ、深くものを考えるといった機会がどれほどあるというのでしょう? たぶん、まったくと言ってよいほど無いでしょうし、そうなると自分なりの世界観や価値観を育て上げることはほぼ不可能になります。

私の身の回りにハーバード大生は一人もいません。あくまでも『ハーバード、ジュリアードを首席卒業した私が観てきた新・世界の常識』に書かれていることをベースにこの記事を作成しました。とはいえ表面的な人間関係をつくるよりも、じっくりとものを考える時間を確保するほうがよほど大事だという私の考えは、かなりいい線行っていると思います。