ナチスはT4作戦と称して障害者を安楽死させていたというのはわりと知られている事実です。
これには「優生思想」という、ナチス・ドイツだけではなく当時の先進各国を席巻した思想が背景となっており、簡単に言うと身体的、精神的に秀でた能力を有する者の遺伝子を保護し、逆にこれらの能力に劣っている者の遺伝子を排除して、優秀な人類を後世に遺そうという思想です。

この他にも、「人はどれくらいの〇〇に耐えられるのか」といったことを調べるために残酷な人体実験を行ったり、ユダヤ人を迫害して国外に追放しようとしたり、しまいには占領地域でのユダヤ人を機関銃などを使って虐殺したり、それでも追いつかないということで強制収容所に無理やり集めてガス室で一気に殺してしまったり・・・、などと取り返しのつかないことを行っています。

では大量破壊兵器たとえば原爆は? というとナチスは原爆を開発していなかったというのは案外あまり知られていない事実のようです。


ナチスは原爆を開発していなかった

NHKの科学ドキュメンタリー番組「フランケンシュタインの誘惑 #2 原爆誕生 科学者たちの罪と罰」では、「ナチスに先を越されてはならない」とアインシュタインがアメリカ大統領に警告した書簡を発端にオッペンハイマー率いるアメリカの研究グループがドイツ降伏後も原爆を開発に突き進み、やがて広島そして長崎へ原爆が投下されることとなります。

じつはナチス・ドイツは原爆を開発していませんでした。・・・ということを1944年末にオッペンハイマーたちは知ってしまい、「だったらこんなプロジェクトはやめたほうがいいだろう」ということが研究グループのなかで議論となります。空中分解しかけたプロジェクトをそれでもリードしたのがこのオッペンハイマーで、1945年夏には人類初の核兵器が誕生します。

なぜナチス・ドイツは原爆を開発していなかったのでしょうか。
もともと原爆はアインシュタインが発見した「E=mc2」という数式が元となっています。
日本語に直すと「エネルギー=物体の質量×光速×光速」という意味であり、ある物体の質量が消滅する時、その質量に光の速さの2乗を掛け算したエネルギーが放出されるということになります。
私の体重は48キロですが、私を文字通り消滅させると(殺害するとか燃やすとかいう意味ではなく本当に消滅です)、48キロに秒速3億m x 約3億mを掛け算したエネルギーが放出されるということです。

広島型原爆では核分裂反応を起こしたウランは876.3グラムであり、その結果消滅した質量は1グラム未満だと言われています。たったそれだけであのようなことが起こるわけですから、私が消滅するとアジア全域(推定です)が消え去るほどのエネルギーが放出されることになります。すごいや。

こんなものにヒトラーが目をつけないはずはない・・・。
と思いきや、アインシュタインの理論が元になっていることが災いし(幸いし?)、ナチスは「これはユダヤ的科学である」とみなして原爆開発をほとんど行っていませんでした。
代わりにロケット弾の開発に力を注ぎ、完成したのがV1ロケット、V2ロケットでした。たしかにロンドン攻撃に力を発揮したものの、戦果の割にコストがかかるという欠点があり戦局を覆すほどではありませんでした。なお、このロケットの開発リーダーであったフォン・ブラウン博士は戦後NASAの一員となりアポロ計画にも関わることになります。要するに「こいつは使えるからナチス関係者だったことはまあ水に流してやろう」ということですね。ほっとけばソ連に引き抜かれる可能性だってあったわけですから、アメリカ政府の考えもわからないではありません。

つまるところユダヤ人を迫害するあまり、優秀な研究者はアメリカへ頭脳流出してしまい、そもそも核兵器の何たるか自体ナチス・ドイツは把握することができず、その結果どうなってしまうかということすら思い至ることもできなかったというのが実情のようです。

「独裁」というのは意思決定が早いという特徴があるものの、最終的には多様性に背を向けるあまり多くのものをそれと知らずにこぼれ落としていき、自壊していくことの、一つの傍証ともなるエピソードと言えるでしょう。