ここに、ヴァイオリンを練習している人がいます。
一体なんのために練習しているのでしょうか? 練習のために練習している? それって進次郎構文ですか?
「今のままではいけないと思います。だからこそ日本は今のままではいけないと思っている」
「毎日でも食べたいということは、毎日でも食べてるというわけではないです」
「リモートワークができるおかげで公務もリモートでできるものができた」
「約束は守るためにありますから約束を守るために全力を尽くします」
おっと、このページは進次郎構文の話ではなくヴァイオリンの話でした。私はヴァイオリンの練習に行き詰まっています。だからこそ私は今のままではいけないと思っている。そう思っている方は私だけではないでしょう。
そうやって頑張って練習を重ねていると、いつか「今度の発表会、あなたも出てみませんか」と先生から誘われる日が来ます。
そして最初に立つステージでおそらく「愛の挨拶」とか「歌の翼に」とか、有名どころを弾くでしょう。大抵はうまくいかなくて大爆死ですが。それで挫折してやめてしまう人も・・・?
しかしそれでも諦めない根性を持った立派な人は、さらに上達してコレルリの「ラ・フォリア」とかマスネの「タイスの瞑想曲」とかを弾くようになります。また大爆死しても、めげずに続けられるのがさらに続けられる人。諦めが悪いのか、恥じらいがないのか、ほかにやることがないのか・・・。逆に感心しますね。すべて私のことですが。
さらに往生際が悪くヴァイオリンを続けていると、「今度の発表会、ソナタでも弾いてみないかね」と言われることになります。
しかし世の中にヴァイオリン・ソナタなんて掃いて捨てるほどあります。
一体どれを選べば・・・?
ヴァイオリンの演奏会で最初に弾くソナタとは
私はヘンデルの「ヴァイオリン・ソナタ 第1番」を推します。
ヘンデルというと「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」みたいにやけに景気がよくて賑やかな作品を思い出します。バロック時代の作曲家は、〇〇公とか〇〇侯とか、要するに王族や貴族たちの宮廷作曲家として彼らのために音楽を作っていました。繰り返し観賞されるということは想定されておらず、何らかの式典とか儀式とかのためにBGMとして一回限りしか使われないであろう使い捨て商品のようなものでした。
これらの作品が今なお聴かれ続けているというのは、それだけ過剰なまでのクオリティが投入された結果、歴史の試練に耐えた証なのでしょう。「ヘンデル君、ワイは来週『薔薇を見る会』を開くから、しっかり忖度していい曲を作ってくれたまえガハハ」みたいな曖昧なオーダーを乗り越えて、よく頑張りました!
しかしヘンデルの作品には余計な欠点がありました。うるさいのです。たぶん主君のハノーファー選帝侯がバブリーな性格だったのでしょう(私の想像です)。
さらに致命的な欠点がありました。退屈なのです。管弦楽曲はともかく、ちょっと前にやたらと彼のオペラがリバイバルされてすぐにすたれたのは、すぐに退屈だとばれてしまったからではないでしょうか(これも私の想像です)。
ところが意外なことに、彼の残した「ヴァイオリン・ソナタ」は名曲ぞろいで、たいして難しい技巧が盛り込まれているわけではないので「タイスの瞑想曲」に手が届くくらいなら十分太刀打ち可能です。
この第1番は10分弱(標準的なテンポなら8分くらいでしょう)という手頃な長さに加え、長調でありながらどことなく憂いを秘めた典雅なたたずまい。なんだかヴァトーの絵画を思わせる気品があります。どうしてこんな能力があったのに、管弦楽曲になるとあんなに騒がしく、オペラだと眠くなるのか・・・。いえ、文句は言いますまい(もう散々言ったわ)。こんな綺麗な曲を書いてくれて、今の時代に受け継がれていることそのものが奇跡としか言いようがありません。
あとは、私たちがちゃんと弾けるかどうか、問題はただそれだけです。それが一番難しいんですけどね。
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