ミヒャエル・エンデの代表作『はてしない物語』の終盤に登場するのがイスカールナリです。
たぶんこの記事にたどり着いた方は、「イスカールナリ」というキーワードで検索してくださったのだと思います。そういう方にとって説明は不要だとは思いますが一応おさらいしておきましょう。

バスチアンはファンタージエンの国に誘い込まれ、アウリンの力で「自分の言ったことが本当になってしまう」という能力を獲得します。これはファンタージエンの人々にはできない、「物語を創作する」という力でした。

しかしこの力を一度用いると、これに応じて現実世界の記憶が一つ失われてしまう(しかし本人はそのことに気づかない)という、とんでもない罠がありました。
バスチアンはいつの間にか元いた世界の記憶が薄れてゆき、自分がこの国の帝王になればいいという野望を抱きはじめてしまいます。そしてこれが露見すると手下を引き連れてアトレーユたちとエルフェンバイン塔ではげしい戦いを繰り広げることになります。

この結果、すべてを失ってボロボロになったバスチアンは「元帝王たちの都」で廃人同様となった「元帝王たち」=近未来の自分の姿を目の当たりにし、なんとかして現実世界への出口を見つけ出そうとするのでした。こうしてたどり着いたのがイスカールの町。住民は自らを「いっしょ人」という意味をもつ「イスカールナリ」と呼んでいました。太郎とか花子みたいに、個人を区別する必要がないので名前は一つで十分なのだとか。


イスカールナリはサラリーマン?

さてこのブログは「友だちいない研究所」と言います。つまり私は友だちがいない陰キャです。
というわけでここにはたくさんのひねくれて皮肉な記事が詰め込まれています。こんな記事を5年近く毎日書き連ねているわけです。元帝王たちの都並に暗いですね。

私にはこのイスカールナリというのが日本のサラリーマンにどうしても重なって見えてしまいます。

理由は、「かけがえのない個人はいない」という点にあります。

バスチアンたちが霧の海を渡ろうとするとき、大霧がらすがイスカールナリの一人にとびかかり、どこかに運び去ってしまうという事件が発生します。しかしイスカールナリはその後も何もなかったかのように歌を歌ったり舞を舞ったりして航海を続けるのでした。
バスチアンは「どうして?」と尋ねると、「いいえ、わたしたちはちゃんとそろっていますよ。どうして嘆くわけがありますか?」
彼らの場合、一人一人の個人というのは問題ではなく、区別がないためにかけがえのない個人というのもまた存在しないのでした。

バスチアンは彼らの様子を見ているうちに、「誰かの仲間に入れてほしい」という願いから、「一個人としての自分を受け入れてほしい」という願いが芽生えてきます。これがアイゥオーラおばさまと出会う道へとつながっていくわけです。

サラリーマンはどうでしょうか。この記事を読んでくださっている方が「私もサラリーマンです」というのなら飲み込みは早いと思います。ある会社において、あなたに期待されているのは「あなた」というパーソナリティではなく、「あなたが提供する労働力」であり、「技能」であり「知識」であり、それらがベースとなって出来上がる「成果物」なのです。

本来であれば「株式会社」という「法人」が行わなければならない様々な作業が山のようにあり、しかし「法人」は本当の人間ではないので売ったり買ったり支払ったり納品したりができず、「あなた」が代わりにそれをやっているわけですから、その作業を担うのは何も「あなた」でなくてもOKです。であるがゆえに、「あなた」が今の仕事を任される前も別の人がそれを担当していて会社はそれで回っていたわけですし、「あなた」が人事異動で今の業務を離れても後任がそれを担当して同じように仕事を続けるはずです。したがって、たとえあなたがいなくなっても、「いいえ、わたしたちはちゃんとそろっていますよ。どうして嘆くわけがありますか?」

たぶんサラリーマンは誰しもこのことにどこかのタイミングで気づくはずです。気づかなければアホですが、それはそれで幸せな人生かもしれません。「仕事をして、誰かに認められたい」と野望を燃やすのも悪いことではありません。見方を変えれば会社にいいように使われて搾取されているだけですが。
少なくとも、「仕事で認められたいマン」はブログなんかやらないでしょうし、こんな記事を読みに来ることもないでしょうね・・・。