今やどのアーティストもYouTubeでMVを公開することが当たり前になりました。
それはいいのですが、YouTubeは当然ながら映像メディアであって音声オンリーではありません。昔は動画は画素が粗くて見づらかったのですが今ではTVと同じくらいの画質で見ることができます。
こうなってくると、どうしても音楽のクオリティつまり音程の正しさとか歌うときのフレージングづくりに対するセンス、曲調と歌詞の世界観がマッチしているかどうか、といったことよりもMVの完成度つまり「映像作品としてどうなのか」という方に評価軸が移りがちになります。
結果としてJ-POPであれK-POPであれ、音楽よりもどちらかというとダンス優先となってしまい、映像作品としてMVの視聴者を視覚的に(音楽的にではなく)魅了するために複雑な振付が採用されてしまうことになります。
そうなると実際のライブでは難しい踊りを披露しながら歌うということは不可能ですから、口パクにならざるを得ません。
しかも歌詞も日常語からかけ離れた語彙が選ばれる傾向が徐々に強まっているのか、歌詞を字幕なしで聴くと日本語歌唱なのに聞き取れない、という珍妙なことが起こってしまいます。
ついでに書くなら、ダンスに力を入れれば入れるほど歌がおろそかになるわけで(時間や資金といったリソースには限界がありますから)、CDに収録された歌声も本人歌唱をコンピュータで加工して音程を人工的に整えた不自然なものであることは想像に難くありません。現に、私は複数のアイドルや声優のコンサートと称するものを鑑賞したことがありますが、踊りながらなのに妙に歌が安定していたり(口パクだからです)、生歌のときは声がブレブレだったり、というのを経験しています。まあ、その現場に音楽を期待して足を運んだわけではないので、これはこれで構いません。
でもこれって音楽と言えるのでしょうか? 音楽を聴いているのか、見栄えのいい動きをする有名人を見物して興奮しているのか、どっちでしょう?
ライブをやめてしまったビートルズ
思い出すのが、ビートルズの「ライブをやらなくなった」というお話です。
音楽家である以上、お客さんに実演を届けてこそなのに、一体どうして?
実はビートルズの人気が高まるにつれて、彼らを音楽家ではなくアイドル視する人もまた増加しつづけ、当時のPA装置で拡声できる音楽そのものよりも観衆の声援の方が大きくなり、音楽がかき消されてしまうという事態が頻発していました。
やがてビートルズは気づきます。「お客さんたち、実は自分たちを観に来ているだけだろ? 音楽を聴きに来てないだろ?」その通りでした。結局、彼らはライブの場から遠ざかりキャリアの後半はレコーディングアーティストとしての道を歩むことになります。
歴史は繰り返すのか
もしこれからのJ-POPが映像(とくに、ダンス込みの)あってこその音楽となるのであれば、それこそビートルズを音楽家ではなくアイドル視=偶像崇拝した60年前の聴衆となにも変わらないでしょうし、私はおそらくそうなるだろうと考えています。言い方を変えると、音楽をまず音楽そのものとして鑑賞し、評価できる人というのは世の中のひと握りだということです。そして音楽を楽しむ場であるはずのライブはますます生歌ではなく機械によって加工された音響が用いられるようになる・・・、というのが私の見立てです。
東京ドームや日本武道館のような巨大な空間にPAを設置して、ただ音量が大きいだけの音の連なりを放送することにどのような音楽的美しさがあるのか私にはまったく理解できませんが、「有名人見た」式のただの興奮を「感動」と思わせてお金に換えるのが芸能ビジネスだと思えば、それで雇用とか税収とかが確保されるわけですし、その時代を反映したポピュラーカルチャーが形成され、次の世代でそれが上書きされ、また新しい文化が生まれてるわけですから、まあ納得できなくもありません。
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