ラブライブ! シリーズでは、生徒会長がスクールアイドル部を認めないというのが「あるある」として定着しています。
第2作『ラブライブ! サンシャイン!!』では生徒会長の黒澤ダイヤが高海千歌が申請したスクールアイドル部設立を案の定断っています。
ばかりか、高海千歌はμ'sのことを「ユーズ」と誤読してしまい、これには黒澤ダイヤは我慢できませんでした。
「それはもしかして・・・『μ’s』の事を言ってるのではありませんですわよね・・・?」「あ、もしかしてあれ『ミューズ』って読むの・・・」
「おだまらっしゃ~~いッ!!!」
「言うに事欠いて、名前を間違えるですって・・・?」「μ’sはスクールアイドル達にとっての伝説、聖域、聖典、宇宙にも等しき生命の源ですわよ!その名前を間違えるとは!・・・片腹痛いですわ」
あれっ? このセリフを聞いていると、黒澤ダイヤとは無関係に別の小説の登場人物を思い出してしまうのでした。
デジャブだろうか、黒澤ダイヤのセリフで別の小説を思い出す
はっきりいってベストセラーでもなんでもなく、今は紙の本は絶版になっている(Kindleで読めます)、宇神幸男さんが書いた『神宿る手』という小説があります。
著者の宇神さんは宇和島市役所勤務のかたわら、1990年、音楽ミステリー『神宿る手』で小説家デビューを飾っています。その1年前には、名声が消えかかっていたフランスのピアニスト、エリック・ハイドシェックの再デビューコンサートを宇和島市立南予文化会館で企画・開催しています。このときの演奏は鬼気迫るもので、音楽評論家の宇野功芳さんがそののライブレコーディングをCD化することをメーカーに進言し、大きな話題を呼びました。
そのときの経験をもとに書かれたのが『神宿る手』です。
舞台は昭和60年頃の日本。ピアニストであるヒロイン・島村夕子の師匠ジェラール・バローは戦後数十年にわたり公開演奏の場から退いて沈黙を守っていましたが、そのことを惜しんだ島村夕子が「これはバローの演奏です」と偽って自分が代奏・録音したCDを発売してしまいます。
やがてCDが評判になると、「バローの演奏らしくない。偽物ではないか」という疑惑が(島村夕子の期待どおり)立ちのぼり、やむを得ずバローは自分の実力を証明するために東京でコンサートを開くことを決意する・・・、という内容でした。
音楽雑誌の編集者から「そんなにバローはすごいのか?」と問われると、島村夕子はこう返します。
「パハマンの音色、フィッシャーとケンプの滋味、リパッティとハスキルの純潔、コルトーの奔放、エリー・ナイの神がかり、グールドの機知、リリー・クラウスとハイドシェックのテンペラメント、・・・きりがありませんわ」
20世紀に活躍した名ピアニストの名前を列挙し、バローはこれら全てのピアニストの長所を兼ね備えた稀代の音楽家であることを強調しています。『神宿る手』でこの部分に差し掛かると、つい「μ’sはスクールアイドル達にとっての伝説、聖域、聖典、宇宙にも等しき生命の源ですわよ!その名前を間違えるとは!・・・片腹痛いですわ」を思い出してしまいます。トラウマでしょうか。
ちなみに島村夕子という人物は、銀行、ホテル、非鉄金属、精密機械などを束ねる伊原財閥のトップである伊原頼高という経営者の私生子ということになっており、つまりはとんでもないお嬢様という設定です。名家の出身だというのは黒澤ダイヤも島村夕子も同じですね。
しかしそれにしても黒澤ダイヤと島村夕子はこれくらいしか共通点がありません・・・。
我ながらよくもまあこんなしょうもない記事を公開する気になったな!
ちなみに『神宿る手』はその後『消えたオーケストラ』『ニーベルンクの城』『美神の黄昏』と続刊があり、四部作を形成しています。バローを日本に招いた島村夕子はその後オーケストラ消失事件を目の当たりにしたりスイスの古城に行ったり、しまいにゃネオナチに追いかけ回されたりとえらい目に遭います。(当然ながらラブライブ! とは何の接点もありません!)
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