夏目漱石の『吾輩は猫である』は主人公である猫が溺れて死んでしまうところで終わっています。
次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否楽そのものすらも感じ得ない。日月を切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。
この場面の直前に猫はビールを飲んで酔っ払っています。猫ってビール飲めるんでしょうか? 作者が飲んだと言っているから飲んだのでしょうね。
酔っ払って溺れてしまうのはヘルマン・ヘッセの『車輪の下』の主人公も同じです。やはり飲み過ぎると駅のホームから転落したり、用水路に落ちたり(私の地元岡山県は用水路にガードレールがなくて死亡事故が多発しています)、ろくなことがありません。
さて猫が溺れて死んでしまうのは夏目漱石の時代よりも遥か昔にも起こっていたらしく、18世紀イギリスの詩人、トマス・グレイは「愛猫を弔ううた 金魚の鉢に溺れて死んだ猫の詩」という作品を残しています。
友人ウォルポールが飼っていた猫が死んでしまい、1747年に擬英雄詩体で書きあげたのがこの詩でした。
背の高いかめのふちで起ったことだ。そのかめにはシナの豪華な芸術が紺青の花を彩って咲かせていた。世にも淑やかなトラねこのやからでもの思いがちなセリマは身を寄せて下の湖を見つめていた。(福原麟太郎訳、以下同じ)
セリマという猫が死んだ様子をこのように語り始めます。これは岩波文庫の注釈によるとドライデンの名作「アレグザンダー大王の饗宴」の第一行目「ペルシャに勝った饗宴の場で起ったことだ」を意識したもので、詩はこの雰囲気を維持したまま進んでいきます。
読み進めると、どうやら猫が金魚の泳ぐ姿に向かって手を伸ばそうとしたところ、そのまま落ちてしまったようです。
湖水の中から八度、頭を出して、あらゆる水神に鳴いて訴えて急ぎの助けを求めたのだが、イルカも来ねば、海の精すら動かない。手荒なトムもスーザンも、耳が無い。お気に入りには、友達がないものだ。そこで、美人のみなさんたちは悟られたい。一たび足を踏み外せば、とりかえしがつかぬ、大胆は良いが、用心ぶかくしてほしい。戸惑いする目を誘うものや軽はずみの心を引く、すべてが正しい獲物ではない。輝くもの、すべてが黄金ではないという。
海の精云々というのは、ギリシャ神話でそのような場面がしばしば見られるからだそうです。「輝くもの、すべてが黄金ではない」は、英語のことわざとして高校のときに暗唱させられた人もいるのではないでしょうか。
結果的に、この作品は21世紀に生きる私たちが今なお岩波文庫で読めているという点で時間の試練に耐えた作品=古典となっています。皮肉なことに、この猫は溺れ死んでしまったがゆえに逆に歴史的有名人(猫)になりました。人間の・・・、いや、生物の命というのは、グレイが別の作品(「墓畔の哀歌」)で書き記したように「避けがたい「時」が待っている」ものであり、その道は「みな墓場につづいているのだ」。
しかし不滅なものもあります。たしかに猫は死んでしまいましたが、そのことを記した言葉はそれを読む人がいる限り何百年でも残り続けることが可能です。こう考えると、『聖書』しかり『万葉集』しかり、言葉のもつ無限の可能性を改めて実感し、日々根暗なブログ記事を書き連ねている私などクラクラとなってしまうのでした。
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