11月23日は勤労感謝の日です。勤労感謝の日とは、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」国民の祝日であり、1948年(昭和23)制定されました。
戦前は新嘗祭と呼ばれていましたが、戦後、GHQの占領政策によって勤労感謝の日と改められました。ネットで調べると「国家神道とのつながりを断ち切り云々」という解説が見つかりますが、なんだかアメリカのサンクスギビングデーからパクったネーミングセンスだとしか思えません。

とにかくお互いに感謝し合う日だということは確かながらも私の職場は出勤日でした。こんな日に働く羽目になるなんて、不幸にもほどがあります。感謝というよりもむしろ恨みを覚えます。
そういう気分になってくると、私はとある古代ギリシア・ローマの名言を思い出すのでした。


感謝すべき日に思い出すべき古代ギリシアの名言

ディオゲネス・ラエルティオスは『ギリシア哲学者列伝』でこう述べています。
すぐに古びてしまうものは何かと問われて、「感謝だ」と彼(アリストテレス)は答えた。
じつに鋭い! 仕事で誰かに助けてもらったときの感謝の気持ちとか、逆に誰かを助けて感謝されたこととか・・・、こういうのはわりと簡単に忘却の彼方に遠ざかってしまいます。
逆に、「お前あのときミスしただろう」というのはいつまで経っても掘り返される傾向があります。

似たようなことは日常的に起こっていて、たとえばJRがダイヤどおりに電車を運行させるのは会社内で数十年にわたるノウハウが蓄積されているからに他ならず、1分の違いもなく電車が駅に到着するというのはフランスやイギリスなどではありえないことです。
・・・ということは日本人なら知っているはずですし、そのありがたみには十分感謝すべきでしょうけれども、毎日当然のごとく電車が時間ぴったりに到着するとそれが当たり前だと思うようになり、2,3分遅れただけで「〇〇線の乗り換えガー!」などと怒り心頭になるのが平均的な首都圏の日本人の姿ではないでしょうか。

これはノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの「人が損をするときの痛みは、得をするときの嬉しさを上回る」という説となにやら通じるものがありそうです。これを言い換えると、嬉しいことよりも損をしたときの心理的インパクトのほうが大きいということでしょう。

すなわち、たとえ職場で「〇〇さん、ありがとう」と言われたとしても、このことによって獲得した感謝とか尊敬とか人間関係は長続きするものではなく、1度のミスによって直ちに悪い印象に上書きされてしまい、しかもそのイメージのほうがずっと長期間にわたって引きずられるものだと理解しておくべきでしょう。

プラウトゥスは『カルタゴ人』のなかでこう述べています。
(金持ちは)何かいいことをしてさしあげたときには、感謝の気持ちは羽毛より軽い。ところが、何かしくじってみろ。鉛みたいに重い怒りでのしかかってくる。
たしかに政府がなにか目のつけどころの良い政策を採用し、そのことによって失業率が改善したり景気が上向いたりしてもそれに感謝する人は皆無に近いでしょう。でもデフレとか自然災害とかへの対応にほころびがあったときは、誰もが政府が悪い、自民党が悪いと不満をぶつけます。(ただし、その状況を改善するために身近なレベルでもいいから自分でできることを何かやってみようと創意工夫する人を見たことがありません。)

え、うがった見方だ? いえいえ、人間なんてしょせんそんなものですよ。嘘だと思うならヤフコメとか発言小町とかママスタとかをご覧なさい。それでもわからなければ、週刊誌やスポーツ新聞の見出しを読んだうえで、どうしてこれが商業誌として成り立っているのかお考えください。もし万が一それでもわからない場合は、もう一度ヤフコメとか発言小町とかママスタとかをお読みください・・・。