『指輪物語』の終盤ではモルドールの軍勢がゴンドールに攻め込み、ミナス・ティリスは包囲されてしまいます。ところが執政デネソールはパランティアを通じてサウロンの影響下にあり、国民が期待したような防衛策を講じることができませんでした。頼みの綱であるファラミアも重傷を負い、戦うことができません。

果たしてローハン、そしてアラゴルンたちが到着するまでこの都は持ちこたえるのか・・・。恐ろしいナズグルの王に率いられたオークたちはドル・アムロスの騎士たちを追い詰め、ついに破城槌を使ってゴンドールの門を打ち壊したのでした。

ナズグルの王にたった一人立ち向かったのはガンダルフでした。 
「きさまはここにはいることはできぬ。」と、ガンダルフはいいました。大きな影は立ち止まりました。「きさまに用意された奈落に戻るがよい! 戻れ! きさまとその主人を待ちかまえている虚無に落ちよ。行け!」
ナズグルの王はこれをあざ笑い、黒の頭巾を払って自らの正体を明かしました。彼が剣を振りかざすと焔が刀身を走り、今にもガンダルフに打ちかかろうとします。そのとき・・・。
ガンダルフは動きませんでした。おりしも正にこの時、城市のどこかずっと奥の中庭で雄鶏が時を告げたのです。甲高く、はっきりと、時を告げました。魔法であれ戦いであれ、少しも頓着なしに。ただ死の暗闇の遥か上空にある曙光とともにやってきた朝を喜び迎えたにすぎなかったのです。
これに応えるかのように、ペレンノール野に響き渡る角笛の音。援軍です! ローハンがついにゴンドールにたどり着いたのでした!

・・・と、想像するだけでも壮麗で勇ましいこの場面ですが、鶏の鳴き声というのはキリスト教においては極めて重要なモチーフとされています。敬虔なカトリック信者でもあったトールキンはここに聖書にも描かれていたある場面にひそかに言及しようとしていたのでしょうか。


キリスト教における鶏の意味

次の文章は、遠藤周作の代表作『沈黙』からの引用です。
司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。
日本人とキリスト教の関わりを生涯を通じて考え続けていた遠藤周作も、やはりここでは意識的に「鶏」を持ち出しています。

「マタイによる福音書」では、一番弟子ペテロが師匠のためになら死んでも構わないと宣言します。フェレイラやロドリゴのように熱心ですね。ところがイエスは「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう」。

事実、イエスが捕縛され、大祭司の官邸に連行されてしまうと、その様子を見ようとペテロが人混みをかき分けると、「お前もイエスの弟子だろう。見覚えがあるぞ」と群衆に指摘され、咄嗟に「いや、あんな人物は知らない」と否定してしまいます。「そんなはずはない。仲間のはずだ」「違う。関係ない!」そんなやりとりをしているうちに朝日が射し、鶏が鳴き声を立てるのでした・・・。

固い忠誠心すらも、自分もまた逮捕され殺されてしまうかもしれないという恐怖感を前にするとたちまち砕け散ってしまい、夜中から朝までの短い時間のうちに自尊心なり信仰心なり、これまでプラスだったものが一気にマイナスに転落してしまうのでした・・・。

トールキンも当然ながらこの話そして鶏の意味を熟知していたはずですし、だからこそ物語が佳境に差し掛かった時点で意識的に鶏を持ち出したと見るべきでしょう。

ただ中つ国の世界観として、指輪物語の時代のあとにエルフたちが世界を去り、少しずつ魔法というものが薄れていったあとにジークフリートとかベーオウルフの時代になり、やがてキリスト教の時代となり、今の人間の歴史に連なっていく・・・、という構想があったわけですから、「新約聖書に書かれているこの場面は、昔中つ国でこんなことがあって・・・」という体裁になっていたとしても不思議ではありません(この他、エントの行軍とか「絶対に人間の男には殺されない魔王」がシェイクスピアの『マクベス』を暗示しているのも同じことでしょう)。

新約聖書では裏切りの場面で用いられた鶏は、ここでは絶望が希望に転換するというポジティブな意味を与えられています。夜から朝へ時間が推移するというのは闇が支配する時代から光がこれに打ち勝つというのと同じですから、「鶏が鳴くとは、本来はこういうことだ」とトールキンは言いたかったのでしょうか。必要以上に作品を深読みされることを嫌っていたトールキンですが、私はどうしてもうがった見方をしてしまうのでした。