夏目漱石の代表作といえば『こころ』です。高校の教科書にも掲載されているので読んだことがある人も多いでしょう。

田舎から上京してきた主人公が「先生」と知り合い、人間関係を深めてゆくなかでどうやら「先生」には秘密があるらしいと気づきます。そして父の健康状態が悪くなって帰省し、いよいよ最期が近づいてきたとわかったまさにそのとき「先生」からの遺書が届き・・・。

というのが大雑把なあらすじです。この中で、東京で学問を身につけた主人公が田舎に戻ると、なんだか自分の故郷だというのに退屈を感じてしまうというくだりがあります。

一緒に囲碁を差している父が「先生」と比べると物足りない人だと感じられるようになってしまい、さらには、

その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも解らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、儒者の家へ切支丹の臭いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に留まった。私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。

学問を修めて賢くなったら田舎の人が本当に「田舎者」に見えてしまう・・・。
つまりは賢くなればなるほど、そうじゃない人をだんだんと(自覚がないまま)見下すようになっていくということですね。明治時代の小説にさらりとそんな怖いことが書いてあるわけですが、これは私達の日常生活でも似たようなことは山のように起こっているはずです。

たとえば、会社のサークル活動としてテニス部が発足したとします。最初は仲良くプレーできていたのに、「俺たちはもっと鍛えて大会で勝ち上がりたいんだ!」という集団と、「いや、ただ健康に汗を流せればそれでいいです」という集団に分かれていき、だんだんと前者が後者を見下したような言動を取るようになったり・・・。
(実は私が通っていた大学に複数あったオーケストラもそんな感じでした。Aオーケストラの団員がBオーケストラ団員を低く見ているのが口ぶりから伝わってきました。)

じつは最近の科学的調査も夏目漱石が書いたことと似たような結果を示しています。橘玲氏の著作『バカと無知――人間、この不都合な生きもの――』によると、
近年の脳科学では、「(自分より下位の者と比べる)下方比較」では報酬を感じる脳の部位が、「(上位の者と比べる)上方比較」では損失を感じる脳の部位が活性化することがわかった。脳にとっては、「劣った者」は報酬で、「優れた者」は損失なのだ。
とあります。これは、自分より優れた者が「悪いこと」に手を出したことが露見し、「正義の鉄槌」が下ることに快感を感じ、劣位にいる者を見れば自分のほうが恵まれていることが確認できるため、これも脳が「娯楽」と受け止めるというもの。気持ち悪い話ですが、何万年という時間の積み重ねのなかでヒトが社会を形成していく過程で脳がそのように「プログラム」されてしまったようなのです。

これを『こころ』に応用するなら、賢くなった若者が、高等教育にアクセスできなかった人を見ながら「オレなんか東京の大学でありがたい書物を大量に読破してる・・・。それにひきかえ田舎者ってなんてこんなに愚かなんだろう」などと頭の中で「娯楽」を味わっているという見方もできます。たぶん地方出身で都会の大学に進んだっていう場合、身に覚えがある人もいるんじゃないでしょうか?





・・・ああ、またこんな記事を書いてしまった・・・。私はますます人間が嫌いになり、友だちがいなくて良かったという思いを新たにしてしまうのでした。