このブログは見ての通り「友だちいない研究所」といいます。管理人である私には友だちがいません。

友だちがいないということは悪いことだと思われがちです。しかし陰キャで根暗な自分にとっては「友だちがいないほうがむしろストレスが少なくて得じゃないか。幸せなんじゃないか?」という思いを拭い去ることができません。っていうか普段の行動からして友だちができるような動きをしていません。そりゃ一人ぼっちになりますわ。

そんな私にとって、人と喋るということはかなりの苦痛なのです。


陰キャは人と喋りたくない! 喋らないほうが幸せ!

そもそも「幸せ」とは何でしょうか。人によって「家族が健康でいられたら」とか「仕事で成功できたら」とか「嫌いな政治家が失脚したら」とか願望がいろいろあって、これが現実化したときに感じられるであろう快楽を幸せであるとみなす人が多いでしょう。

私にとっての「幸せ」とは、「不幸がないこと」です。

そりゃあまあ、フルマラソン走れたり、ヴァイオリンでパガニーニとかイザイとかの難曲を弾きこなすことができれば達成感を感じるに間違いないでしょう。
でもそういう類の達成感なら、「これができたから次はこうだ、ああしまったでもそのためにはこんなハードルがある」などとキリがないでしょうね。

他方で、平和の定義は「戦争がないこと」であることは広く知られています。うまい定義ですね。であれば私にとっての「幸せ」は「不幸がないこと」とみなすことはさほど不自然ではないでしょう。

では私にとって「不幸」とは何かというと、「好きでもないのに人と喋るなどコミュニケーションを発生させてしまい、結果として時間を費やしてしまうこと」です。
このブログで何度も書いたとおり、そしてこれからも同じことを繰り返し語るはずですが、時間の使い方は命の使い方と同義です。つまり時間とは、あなたの(私の)人生の残り時間です。

好きでもなんでもない人と1時間喋って時間を費やしてしまうということは、人生を1時間失ったことに等しいです。
これが1万円失った、ということであれば働いたり節約したり資産運用したりで挽回することができます。でも時間はたとえビル・ゲイツのような大富豪であっても取り戻すことができません。エリザベス女王のように世界中の人々から敬愛される人であっても、若返ることはできません。一市民であれ、大統領であれ、せいぜい80年生きた後に待っているのは「死」です。

私はここ5,6年ほど、「生きるとは何か。人生の目的とは。私達はなんのために生まれ、どこに向かっているのだろう。幸福とは、不幸とは」といったことをずっと考えつづけ、その傍らでアウシュビッツ強制収容所の体験記であったり夏目漱石であったり、ローマ時代の哲学書であったり、様々な本と向き合ってきました。その(現時点の)副産物として、

「人生は時間の集積である」

「自分が地上にとどまることを許された限りある時間を、愛着もない第三者のために費やすと不幸を感じる」

といった実感を得ることができました。どうです暗いでしょう根暗でしょう陰キャでしょうあなたの周りにいますかこんな人は。

こんなことを四六時中考えているので、私は他人と喋りたくないのです!! 


こういうツイートをするのはいかにも私らしいです。でも本当にこれが私にとっての「幸福」なのです。