誰もが一度は読むのが夏目漱石の『坊っちゃん』。この作品の主人公は愛媛県に数学教師として赴任します。
新幹線も飛行機も何もない時代、東京から愛媛県へ移動するだけでも一苦労。文化も方言もまるで違う異郷の地で生徒を指導しなければならないという立場の坊っちゃんはさぞかし苦労したようで、着任早々に生徒と宿直の日に一悶着を起こします。まあこれは坊っちゃんの性格が招いた災いだとも言えますけどね。
ストーリーの面白さもさることながら、一本気な若い教師や、陰謀を働くイヤミな教師、いわゆるマドンナの存在など、後の時代の学園ドラマの原型ともいえる人物相関図が成立しており、こういう点でも後世への影響がうかがわれます。
それと・・・。やっぱりこの時代にも海外出羽守(の原型)がいたようで、クスリとさせられます。
明治時代にもいた、海外出羽守?
海外出羽守(かいがいでわのかみ)とは何者でしょうか?
コトバンクによると、
俗に、何かというと「アメリカでは」「フランスでは」と欧米を例に挙げて、日本は遅れているとけなす日本人をいう。
出羽(でわ)と「海外では」をかけて海外出羽守。最近ではSNSの発達のせいでしょうか、なぜか海外在住の日本人が「アメリカでは」「フランスでは」日本語で日本人に語りかける事例がよく見られます。でももしかしてその日本人さん、現地人から相手にされない程度の人物だから日本在住の日本人に語りかけてるんじゃないでしょうか?
邪推はともあれ、赤シャツもやたらと海外の文物をありがたがります。
「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。(中略)
あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。(中略)
一体この赤シャツはわるい癖だ。誰を捕まえても片仮名の唐人の名を並べたがる。人にはそれぞれ専門があったものだ。おれのような数学の教師にゴルキだか車力だか見当がつくものか、少しは遠慮するがいい。云うならフランクリンの自伝だとかプッシング、ツー、ゼ、フロントだとか、おれでも知ってる名を使うがいい。赤シャツは時々帝国文学とかいう真赤な雑誌を学校へ持って来て難有そうに読んでいる。山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出るんだそうだ。帝国文学も罪な雑誌だ。
なんだ、帝国文学に書いてあることを脳内コピペして連呼してるだけじゃないか!! つまり自分が海外に行って直接ターナーとかラファエロを見たわけではなく、他人の体験談や評論を読んだだけの通り一遍の知識でもって「ターナーを知ってる自分は西洋の文物に詳しい教養人である」ということを周りにアピールしたいだけのようです。「どうせ田舎者にはターナーなんぞわかるまい」と計算済みであることは想像に難くありませんね。早い話が俗物なのでした。痛い奴!
赤シャツひとりが痛い奴ならフィクションの中で完結するのでまだ笑い話で済みますが、現実世界にもやはり似たような人は世の中にたくさんいるので困りますね。
たぶんあなたの学校にも、「村上春樹のこれこれの本が~」とか自慢げに話をする奴とか一人や二人くらいいるでしょう。会社にだって「稲盛和夫さんの経営改革が~」とかいう社内評論家はきっといるはず。でも彼らが何か実際にやっているかというとそうじゃないのが悲しい現実です。
こういう痛い人は、自分が痛い奴だと気づけばいいのですが痛い人は自分を客観視する能力も痛いもの。これは赤シャツの呪いでしょうか。それとも赤シャツという人物像こそが、夏目漱石が描いた「痛いやつの普遍的姿」なのでしょうか。いずれにせよ赤シャツみたいなやつとは関わらないのが一番いいですね。
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