国際標準音高では、「ラ」の音は440ヘルツということになっています。とはいえこれは法律でも何でもないので、国や地域、さらにはオーケストラによってピッチは微妙に異なっています。

日本のオーケストラの場合ですと442ヘルツが一般的であり、ヴァイオリンを演奏するときも442ヘルツでチューニングを行います。標準的な440ヘルツよりも高めのピッチを選んでいるのは、音の輝きを増すためだとされています。一方でアメリカのオーケストラは440ヘルツを採用しているところが多いようです。
ロリン・マゼールは絶対音感を持っていましたが、彼のピッチは440ヘルツで固定されていたらしくて、ウィーン・フィルが採用している445ヘルツとの相性がものすごく悪く、客演の際に非常に揉めたとか。結局マゼールが折れたものの、お互いやりづらかったでしょうね。

ギターの場合は440ヘルツが普通です。私は昔ギターを習っていたときにヴァイオリンと同じピッチでチューニングしたところ、「少し高い」と先生に指摘されました。さすが、耳がいい!

ベルリン・フィルの場合は(少なくとも、カラヤン時代は)445ヘルツを採用している(いた)ようです。

真鍋圭子さんの著作『素顔のカラヤン』によると・・・。


ベルリン・フィルは445ヘルツを採用していた

真鍋圭子さんはサントリーホール設立プロジェクトにも参加したことがあり、カラヤン来日時には家族のアテンドや秘書に相当する役割を務めていました。
1984年の来日公演のうち、公演会場のひとつである大阪のフェスティバルホールにはスイスのクーン社製の大型オルガンが設置されており、これを使いたいとの主催者の希望でプログラムにはレスピーギの「ローマの松」が選ばれました。

ところがここからが大変でした。このオルガンのピッチは442ヘルツ。ベルリン・フィルのピッチは445ヘルツ。さあどうする。

公演に関わったコロンビア・アーティスト・マネジメント側は「ピッチが違うのでホールのオルガンは使えない。電子オルガンを用意しないとカラヤンは指揮をしない」。
しかし立派なオルガンがあるのにそれを使わないで別のオルガンを外から持ち込むなどフェスティバルホールにしてみれば面子丸つぶれ。

ここで登場するのが真鍋圭子さん。このオルガンの輸入に携わったヤマハの社員さんに話を伺うと、「室内の温度を上げるとオルガンのピッチが上がる」との回答を得ました。じつはこの社員さんとはサントリーホール設置準備のための調査を通じてこの時点ですでに顔見知りだったとか。ラッキー!

この社員さんの計算では室温が26度ならばオルガンのピッチは445ヘルツになるとか。そのことを信じてリハーサル当日はホール内の温度を上げてもらうことにしました。コンサートは10月18日でしたが10月の大阪の平均気温は最高気温23度、最低気温15度。これでホール内だけ26度だなんて、不自然にも程がある・・・。

リハーサルの前日に真鍋さんは「ホールのオルガンのピッチがオーケストラと同じだったら、ホールのオルガンをコンサートで使ってもらえますか」と質問し、カラヤンからちゃんと「イエス」という返事を得ていました。

さて結果は・・・。

「暑い、なんだこれは!」
オーケストラの団員たちがクレームの声を上げます。「どうせカラヤンが寒がって真鍋さんに温度を上げろとか言ったんだろう!?」とかなり怒っていたとか。それはともかくカラヤンとオーボエ奏者をステージに連れ出してピッチを調べてみると、オルガンもオーボエも音の高さは変わらないと無事判断され、「ローマの松」は当初の予定通りホールのオルガンで演奏されました。危機一髪!

ちなみにこの日のプログラムは次のようなものでした。

モーツァルト:ディヴェルティメント第15番変ロ長調 K.287
R.シュトラウス:交響詩『ドン・ファン』 Op.20
レスピーギ:交響詩『ローマの松』

このコンサートはカメラが入っていたため、現在でもブルーレイディスク「カラヤンの遺産 ライヴ・イン・大阪 1984」として楽しむことができます。
80年代の映像をブルーレイで鑑賞する意味ってなんだろう? と一瞬戸惑いますが、とにかく20世紀を代表する巨匠の来日公演の様子をこうして楽しめるのはありがたいことです。

それにしてもオーケストラごとにピッチが違っているというのは厄介なもので、それだけクラシックというのは人間の聴覚の限界に挑戦するようなところがあるんですね・・・。